関門海峡に面した下関は、歴史の舞台になることが多い場所。
多くの人物が海峡を行き来し、活躍しました。
下関は歴史の舞台となったのはもちろん、下関出身の偉大な先人もたくさんいます。
この記事では、下関出身の歴史上の有名な人物をご紹介します(敬称略、順不同で記載)。
狩野芳崖(かのうほうがい)
狩野芳崖(1828年~1888年)は、幕末から明治期の日本画家、近代日本画の父。
1828年(文政11年)、長府藩狩野派の御用絵師の家に生まれ、幼い頃から画道に励みました。
御用絵師として働いていたものの、幕末の動乱で職を失い、1870年(明治12年)、島津藩に雇われるまで苦しい生活を続けます。
その後、アメリカの東洋美術史家フェノロサの目にとまったことが、芳崖の人生の大きな転機となりました。
二人は親交を結び、芳崖はフェノロサの助言で洋画と日本画の融合を図り、試行錯誤を繰り返します。
そして1888年(明治21年)、亡くなる四日前に名作「悲母観音」を描きあげ、この絵をもって、近代日本画の始祖と呼ばれるに至りました。
田上菊舎(たがみきくしゃ)
田上菊舎(1753年~1826年)は、「女芭蕉」とよばれた江戸時代の俳人。
1753年(宝暦3年)、現在の豊北町田耕(たすき)の長府藩士の家に、長女として生まれました。
同じ村に嫁いだものの、夫と死別。
長府にて俳号を授かり、長府の田上家に復籍します。
1781年(天明1年)、尼になり、松尾芭蕉の「奥の細道」の逆コースを辿る一大行脚の旅に出発!
それもなんとほとんどが一人旅だったというから、驚きです!
その後も生涯の大半をかけて、全国行脚を続けました。
菊舎の代表作「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」は、宇治の萬福寺で読んだ句。この句で名声を高めたといわれています。
白石正一郎(しらいししょういちろう)
白石正一郎(1812年~1880年)は、幕末の商人。
志士たちと交流を持ち、彼らを支えたことで知られる人物で、明治維新における影の功労者、ともいわれています。
現在の下関市竹崎町の、荷受け問屋の家に生まれる。
尊王攘夷運動を思想的支柱となった国学を学んだことから、各地の志士と交流を持ち、資金面で援助しました。
1863年(文久3年)、白石邸での高杉晋作の奇兵隊結成にも援助し、自らも入隊。
一切見返りを求めず、すべてを倒幕運動に捧げたことで、白石家は破産。
明治維新後は、赤間神宮の宮司としてひっそりと過ごしたそうです。
■郷土作家古川薫さんによる、白石正一郎の生涯を描いた本はこちらです。
三吉慎蔵(みよししんぞう)
三吉慎蔵(1831年~1901年)、長府藩に生まれた幕末の志士。
1862年(文久2年)、京都の寺田屋事件に居合わせ、坂本龍馬の命を助けたことで知られています。
龍馬は慎蔵をとても信頼しており、自分の身に何かあった時のためにと、妻のおりょうとその妹のその後を、慎蔵に託したことがあったほどでした。
■三吉慎蔵についてはこちらで詳しくまとめています。
豪快な人柄で知られ、今も高い人気を誇る幕末の志士・坂本龍馬。 そんな彼には多くの仲間がいましたが、中でも長府藩出身の三吉慎蔵(みよししんぞう)は、龍馬とともに寺田屋事件に居合わせ、彼に大きな信頼を寄せられていた人物です。 …
乃木希典(のぎまれすけ)
乃木希典(1849年~1912年)は、明治時代の陸軍軍人。
人々に「乃木大将」「乃木将軍」と慕われた人物。
長府藩士乃木家の三男として誕生。
維新後、1871年(明治4年)に陸軍少佐となり、国内の内乱を鎮圧していきます。
しかし、西南戦争(西郷隆盛による内乱)に出陣した際、田原坂の戦いで連隊旗を奪われ、一生の恥としました。
1894年(明治27年)、日清戦争へ従軍。第1旅団長として武功を挙げた後、第3代台湾総統に就任。
日露戦争では難攻不落といわれた旅順を、半年がかりで攻略します。
凱旋後は、軍事参議官と学習院長を兼務。
明治天皇崩御の後、大葬の日に夫人とともに殉死。
そのまじめで誠実な人柄から、多くの国民に慕われており、死後、各地に乃木神社が建立されました。
下関市長府にも、乃木神社があります。
中山太一(なかやまたいち)
1881年(明治14年)、滝部村(現在の下関市豊北町滝部)に誕生。
わずか21歳で、クラブ化粧品で知られる、現在の「クラブコスメチックス」の前身となる「中山太陽堂」を創業。
自社化粧品の製造に乗り出し、「クラブ洗い粉」は発売1年余りで約400万個を売り上げる空前の大ヒット商品になりました。
また、郷土の地域教育や産業支援のために尽くしたことで知られています。
1924(大正13)年には、太一とその兄弟からの寄附で、ルネサンス様式の滝部小学校校舎(現 下関市立豊北歴史民俗資料館)が建築されました(現在の下関市立豊北歴史民俗資料館(太翔館))。
1956(昭和31)年、満74歳で亡くなりました。
■「東洋の化粧品王」と呼ばれた中山太一の生涯についてはこちらでまとめています。
山口県に「東洋の化粧品王」と呼ばれた人物がいたことをご存じでしょうか? その人の名は、中山太一(なかやまたいち)。 明治14年(1881年)、滝部村(現在の下関市豊北町滝部)に生まれ、クラブ化粧品で知られる、現在の「クラ …
古川薫(ふるかわかおる)
古川薫(1925年~2018年)は、日本の小説家。
戦後、山口大学教育学部を卒業し、中学教師を経て新聞社に入社。
働きながら同人誌に作品を発表しました。
1965年、『走狗』が直木賞候補になり、退社して作家活動に専念。
1991年(平成3年)、下関出身のオペラ歌手・藤原義江をモデルにした『漂泊者のアリア』で、候補10回目にして直木賞を受賞。
その後も、白石正一郎や田中絹代など、山口県出身の先人たちを題材にした作品を数多く発表しつづけました。
藤原義江(ふじわらよしえ)
大正・昭和に活躍した世界的テノール歌手(1898年~1976年)。
1898年(明治31年)、スコットランド人の父と日本人の母との間に誕生。
18歳の時に、新国劇に参加後、オペラ公演に惹かれ、浅草の「アサヒ歌劇団」に入団。
1920年(大正7年)、ミラノへ声楽修行へ出発。
ロンドンで開催したリサイタルが好評を博し、欧米各地で歌声を披露。「東洋のバレンチノ」と騒がれました。
帰国後開催したリサイタルは空前の大ヒット。欧米各地でもリサイタルを開催します。
その後、「藤原歌劇団」を結成。日本に本場のオペラを定着させようと、数々の公演を行い、日本のオペラ文化を発展させました。
■同じく下関出身の作家古川薫による、藤原義江の生涯を描いた作品「漂白のアリア」は直木賞を受賞しました。
佐々部清(ささべきよし)
佐々部清は、日本を代表する映画監督(1958年~2020年)。
豊浦高校を経て、明治大学文学部演劇科卒業後、横浜放送映画専門学院へ。
2002年、『陽はまた昇る』で監督デビュー。
代表作は『半落ち』『ツレがうつになりまして。』など。
『チルソクの夏』『四日間の奇蹟』『カーテンコール』は下関三部作といわれ、脚本も手がけました。
松田優作(まつだゆうさく)
昭和に活躍した俳優、歌手(1949年~1989年)。
1972年、文学座付属演技研究所十二期生になり、翌年、テレビドラマ『太陽にほえろ!』でジーパン刑事を演じて、強烈なインパクトを残します。
『狼の紋章』『人間の証明』『探偵物語』など、多くのテレビ、映画作品に出演。
1989年には『ブラック・レイン』でハリウッドデビューも果たしますが、1989年癌のため亡くなりました。
田中絹代(たなかきぬよ)
日本映画史を代表する大女優、田中絹代(1909~1977)。
下関で生まれ、幼くして父が亡くなり、一家で大阪へ転居します。
琵琶少女歌劇に加わりますが、映画女優を志し、1924年(大正3年)、『元禄女』で映画デビュー。
同じ年に公開された映画『村の牧場』では、主役に抜擢。多くの作品に出演し、松竹蒲田の看板スターとなりました。
戦後は溝口健二監督の、『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』に出演。
生涯で約260本の映画に出演しました。
また、1953年(昭和28年)、『恋文』で日本で二人目の女性映画監督としてデビューし、6本の監督作品を残しています。
木暮実千代(こぐれみちよ)
3本目は『祇園囃子』です。新米舞妓の少女(若尾文子さん)は恐れを知らぬ若さゆえ、男性客にキスを迫られると彼の舌を一噛み!先輩舞妓(小暮美千代さん)ともども仕事が来なくなります…。過酷な芸者社会に反抗し屈服する…搾取される彼女たちの「変貌」には、哀しくも軽快な力強さが溢れています。 pic.twitter.com/T0UV9GmTsn
— 邦画クラシックス@角川シネマコレクション (@kado_cine) December 16, 2016
木暮美千代は、昭和の女優(1918年~1990年)。
下関市彦島に生まれ、梅光女学院を経て日本大学芸術学部に入学。
在学中、田中絹代に見いだされ、松竹大船に入社。『愛染かつら』でデビュー。
生涯にわたって350本もの映画に出演しました。
代表作は『青い山脈』『酔いどれ天使』『お茶漬けの味』など。
私生活ではボランティア活動にも熱心で、青年養護施設「鐘の鳴る丘・少年の家」後援会長に就任。
1983年からは、保護司としても活動しました。
まとめ
下関出身の有名な先人をご紹介しました。
歴史の舞台になった下関ですが、調べてみて、おもな先人には文化人が多いのが印象的でした。
下関には、田中絹代さんや藤原義江さんなど、先人の記念館や乃木神社もあります。
ぜひ下関の街並みとともに、歴史上の人物の足跡をたどってみてくださいね。