幕末、長州藩の尊王攘夷派のリーダーとして活躍し、維新後は明治新政府にて重要な改革を断行した木戸孝允(桂小五郎)。
木戸は明治10年(1877年)、45歳(満43歳)にしてこの世を去りました。
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木戸孝允の死因
※木戸孝允は幕末、桂小五郎と名乗って活動しました。晩年について紹介する内容のため、ここからは木戸孝允の名前で表記していきます。
木戸孝允の死因は、胃ガンだったといわれています。
1873年(明治6年)、日本と不平等条約を結んでいた欧米諸国へ派遣された「岩倉使節団」に参加していた木戸は、1年半海外を視察して帰国しました。
実際に諸外国を見ることで、これからの日本について具体的に考えをめぐらせた木戸でしたが、帰国後、病床に伏してしまいます。
体調がすぐれない中、病気と闘いながら、それでも政治家としての活動を行っていました。
木戸孝允、晩年の様子と最後の言葉
1877年(明治10年)1月、天皇の大和・京都行幸に従って京都に到着した際、持病を発症。
その日の日記には「胸背を痛み、夜に入りしばしば甚だしく、其困却せり」との記述が残されています。
かなりの痛みだったことがうかがえますね。
2月、同志であった西郷隆盛(さいごうたかもり)が、新政府に不満を持つ士族らとともに西南戦争を起こします。
西郷は幕末からの同志。
その西郷が起こした内乱、そして新政府の将来は、木戸にとって心配の種でした。
5月26日、危篤に陥った木戸は、駆けつけた大久保利通(おおくぼとしみち)の手を握りしめ、「西郷もまた大抵(たいてい)にせんか、予今自ら赴きて之を説諭(せつゆ)すべし」と呟いてこの世を去ります。
明治新政府の基盤を築く、道半ばでの死でした。
木戸孝允が残した名言
木戸孝允は生前、どのような言葉を残したのでしょうか。
有名な言葉のいくつかをご紹介します。
「自分が信じた道を突き進むべきだ。その道を妨げるものなどありはしない」
幕末、京都で活動していた木戸孝允(幕末当時は桂小五郎)は、新選組に命を狙われていました。
追い詰められても戦うことなく、何度も逃げて生き延びた木戸孝允(桂小五郎)は、いつしか新選組から「逃げの小五郎」と呼ばれるようになっていきます。
「逃げの小五郎」とはあまり嬉しくないあだ名ですが、「国を変える」という自分が信じた目的のために、逃げることを選んだのです。
逃げて生き延びたからこそ、倒幕、明治維新を成し遂げることができました。
「他人の良いところを取り入れ、自分の欠点を補う」
師であり同志であった、吉田松陰に送った手紙に書かれた一説です。
冷静に自分と他人を見定め、自らにないものは他人から取り入れようとするとは、謙虚な姿勢の持ち主だったことがうかがえますね。
幕末は尊王攘夷志士として活動し、明治新政府では「岩倉使節団」に参加するなどして活躍した、田中光顕(たなかみつあき)におくった俳句です。
田中光顕ははじめ、この句の意味がわからなかったそうです。
すると木戸孝允は、「桜の下で相撲をとると、勝った人は桜の花を見ることができないが、負けて仰向けに倒れた人は桜の花を見ることができる。国事に奔走した者もそのようなものだろう」と話したといいます。
まとめ
木戸孝允(桂小五郎)の死因、晩年の様子や名言をご紹介しました。
動乱の幕末から明治初期にかけて、表舞台で歴史を作っていくというより、裏側で動いて歴史を支えてきた木戸孝允。
彼がいなかったら薩長同盟も締結されず、倒幕への道のりが変わっていたかもしれませんね。
木戸孝允の晩年や言葉をつうじて、生涯や人柄に関心を持っていただけると幸せます。
※記事の内容は、「小学館版学習まんが人物館 木戸孝允(桂小五郎)」「木戸孝允「勤王の志士」の本音と建て前/一坂太郎」他を参考にしました。
■木戸孝允(桂小五郎)が何をした人なのか、その功績や人柄などをまとめています。
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