「汚れちまった悲しみに」や「在りし日の歌」で知られる山口県ゆかりの詩人、中原中也

教科書などで中也の作品にふれ、その題名を覚えている方も多いかもしれません。
最近はアニメでも取り上げられ、注目を集めているそうですね。

お恥ずかしいことに、山口ゆかりの方なのに詩を読んだり聞いたりすることはあっても、その生涯や人柄はあまり知らないままでした。

山口県民として、実際どんな生涯を送ったのか詳しく知りたい。
そう思い、今回は中原中也の生涯をあらためて調べてみました。

生い立ちや死因、妻、子孫などについても紹介しています。

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中原中也・生い立ち

「神童」のような幼少期と弟の死

     (『別冊太陽 中原中也 魂の詩人』平凡社 7ページより)

中也は1907年(明治40年)4月29日、山口市湯田温泉に6人兄弟の長男として生まれました。

代々続く中原医院の跡取りとして、大きな期待を背負っての誕生でした。

周りの期待に応えるかのごとく、幼い頃からとても頭のよい子で、小学校の成績もすべて甲(優秀)。
周囲から「神童」といわれていたといいます。

中原家は、維新前は武家、維新後は士族でした。
そのため長男だった中也は、かなり厳格なしつけを受けていたそうです。

母は武術で、父は陸軍式の厳しいしつけで兄弟を教育しました。
なかでも、長男であった中也が、いちばん厳しいしつけを受けてきたのは想像するまでもありません。

中也は故郷山口の自然に親しむ一方で、両親からの厳しいしつけへの反抗心を育てていきました。

1915年(大正4年)、3歳下の弟・亜郎(つぐろう)が病気で亡くなります。
亡くなった弟をうたったのが、中也の詩作の最初でした。

のちに中也は、弟亜郎の死を「自身の試作の出発」としています。

文学への傾倒

中也は小学校5年の時に短歌に出会い、防長新聞が主催する短歌の会にも親に内緒で出席するようになります。
また読書欲が高まって文学にどっぷりとのめり込み、次第に勉強をしなくなっていきました。

山口中学に入ってから成績は下降。
ほぼ最下位に近い順位にまで落ちてしまいます。

そしてついに、中学3年を落第
この落第、中也の確信犯的なところがあったようで・・・。
落第した中也は友人を部屋に招き、答案用紙を破って「万歳」を唱えたそうです!

この頃から中也には、学業ではなく文学で生きていきたい、という思いが芽生え始めていました。

いっぽうの父は中也の落第に衝撃を受け、病院の往診を数日休んで布団に潜り込んでいたとか。

「これは一家の恥、中也を山口にはいさせられない」と考えた父は、中也に京都の中学を受験させます。
1923年(大正12年)、立命館中学の3年の補欠試験に合格した16歳の中也は、京都へと旅立ったのです。

中原中也・青春期~出会いと別れ~

京都への旅立ちを中也はこう書き記しています。

「生まれて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり」(「詩的履歴書」より)。

故郷を離れ、ここから自分のあらたな人生が始まる、といった胸高鳴る思いだったのでしょうか。
京都では、彼の人生を揺さぶる大きな出会いと別れが中也を待っていました。

ダダイズムと富永太郎

  (『別冊太陽 中原中也 魂の詩人』20ページより)

中也が京都に出てきた大正12年、首都東京を関東大震災が襲います。

震災は時代の転換点となり、日本の文学界にダダイズム(既成概念を破壊し、個人の欲求を解放する運動)が台頭するようになります。

『ダダイスト新吉の詩』(高橋新吉の詩集)に大きな影響を受けた中也はダダイストとなり、詩を作ることに目覚めていきました。

そのころ初めての友人、富永太郎と出会います。
富永太郎はフランスの詩に通じ、画家を志していました。

中也は6歳年上の富永太郎を慕い、太郎も中也を対等の友人として接し、頻繁にお互いの下宿を行き来するようになります。

しかし太郎は中也を遠ざけるようになり、1925年(大正14年)、結核により24歳の若さで死去。
病気のため、わざと中也と距離をおいたといわれています。

後年、中也は太郎の臨終写真を母に送り、文学仲間では長髪は当たり前だと書き送ります。
1928年(昭和3年)に父が病気で亡くなりますが、世間体を気にした母は「あんたは帰らん方がよかろう」と、中也を葬儀に参列させませんでした。

恋人・長谷川泰子と友人・小林秀雄

   (『別冊太陽 中原中也 魂の詩人』68ページより)

京都で中也は3歳年上の女優、長谷川泰子(はせがわやすこ)と出会い、同棲を始めます。
中也この時16歳・・・!

1925年(大正14年)、泰子とともに上京した中也は、小林秀雄(のちに文芸評論家、作家として活躍)と出会い交流を深めます。

小林は中也のことを「魅力と嫌悪を同時に感じた」と言っています。
嫌悪について、「早熟の不潔さなのだ」と説明する中也。何とも不思議な関係ですね。

小林は中也の恋人・泰子に惹かれ、次第に恋愛関係が深まっていきます。

そして、富永太郎が息を引き取ってほどなく、小林は中也に絶交を宣言。
泰子は小林のもとに去ってしまいます。

中也は泰子が小林の元に引っ越す手伝いをしたというから、これもまた不思議ですよね・・・。

長谷川泰子は、中也にとって生涯を通してたった一人の「運命の女性」だったようです。
別れた後も小林と泰子の家に押しかけて泰子に暴力をふるったり、かと思うと、のちに泰子が出産した子の名付け親になったりしています。

こうして恋人が去り、友人がいなくなり・・・中也は東京で一人ぼっちになってしまいました。

中原中也・別れから生まれる詩

  (『別冊太陽 中原中也 魂の詩人』42ページより)

恋人、友人に見放され、ひとりじっと喪失感と向き合った半年後、中也は代表作のひとつ「朝の歌」を発表します。
大きな別れを、一歩深く進んだ美しい詩に昇華させたのです。

1931年(昭和6年)、中原医院の跡継ぎと目されていた、4歳下の弟恰三(こうぞう)が病死します。

翌年、はじめての詩集『山羊の歌』の出版を計画しますがうまくいかず、出版社にも持ち込みますがうまくいきませんでした。
『山羊の歌』は中也が亡くなる3年前、1934年(昭和9年)に自費出版のためわずか200部の限定で出版されました。

中原中也・結婚、妻と子どもとの穏やかな日々

1933年(昭和8年)、中也26歳の時、6歳年下の上野孝子(うえのたかこ)と結婚します。

母、弟の証言によれば、いつもあれこれ難くせをつける中也が、このときは驚くほど従順だったそうです。
何ゆえだったのでしょうか。

ところで、新婦の孝子さんは中也より身長が2センチ高かったので、写真を撮るのに身長差を隠すのが大変だったと、のちに弟の思郎が著書で伝えています。
中也は身長は低く、150センチあったかどうかだったそう。

式のあと夫婦で上京し、中也は久々に穏やかな日々を送ります。
そして長男文也が誕生。
中也は文也をこれでもかと言わんばかりに可愛がりました。

私生活が順調なのと呼応したように、『山羊の歌』が1934年(昭和9年)に刊行され、中也は多くの雑誌に作品を発表していきます。
「一つのメルヘン」などの代表作が生まれたのもこの頃です。

またフランスの詩人、ランボーの詩の翻訳にも取り組み、『ランボオ詩抄』を刊行(中原中也はランボーの詩の翻訳家としても知られています)。
詩人として、人生の中でもっとも多作な時期を迎えていました。

ちなみに、これまで中也は学校の入退学を繰り返していたため収入はなく、母からの仕送りで生活してきました。
これは結婚してからも続いていたそうです・・・。

1933年に東京外語専修科を卒業してからは、フランス語の家庭教師で小遣いを得ています。
詩人として生きるために、生涯就職しなかったということでしょうか。

中原中也・晩年、死因は

      (『別冊太陽 中原中也 魂の詩人』118ページより)

詩人として脂がのっていたこの時期に、大変な出来事が起こります。
1936年(昭和11年)、長男文也がわずか2歳で病死したのです。

中也はまるで自分の分身であるかのように文也を可愛がっていたこともあり、その死にひどく落ち込みます。
文也が亡くなった翌月、次男愛雅(よしまさ)が生まれます。
しかし、それでも悲しみは癒えませんでした。

中也は幻視や幻聴に悩まされ、神経衰弱で療養所に入院します。
ひと月で無理に退院し、鎌倉へ転居。
それでも身体は次第に衰弱していっており、山口への帰郷を決めたのです。

編集を始めた『在りし日の歌』の清書を小林秀雄に託し、いよいよ山口へ帰ろうとしていた1937年(昭和12年)10月、中也は結核性脳膜炎を発病。10月22日に永眠します。
枕もとの母に、

「僕は本当は孝行者だったんですよ」といい、「今にわかるときが来ますよ」とつけ加え、
数秒おいて「本当は孝行者だったんですよ」といった。(中原思郎「死」より)

それが最後の言葉でした。

中也の死の翌年、小林秀雄に託した『在りし日の歌』が刊行されました。

残された次男愛雅は、中也が亡くなった翌年に病死。
悲しいことに、中也の血は途絶えてしまったのです。

(参考文献・別冊太陽『中原中也 魂の詩人』、『年表作家読本 中原中也』青木健著 河出書房新社、画像は別冊太陽『中原中也 魂の詩人』よりお借りしました)

まとめ

今回は中原中也の生涯をご紹介しました。

山口市の名勝・長門峡や鳴滝には、中也の詠んだ詩碑が残されています。
彼は山口を離れながらも、東京では山口の自然や光景を懐かしみ、帰郷しては故郷の名勝を巡っていました。

封建的な故郷にいては詩人として生きることは困難、しかし詩人として成功して迷惑をかけている母に、故郷に恩返しをしたい。
そんな地元と東京との間で揺れるような思いがあったのではないでしょうか。

ランボーの詩抄が刊行された際は、故郷の遠い親戚にまで送ったとのこと。中也の、詩人として初めて出版にこぎつけたことへの嬉しさ、誇らしさが感じられます。
詩人として、これからのところでした。
その思いが最後の言葉、「本当は孝行者だったんですよ」にあらわされているのでしょうか。

死後、本物の詩人として高く評価され、故郷である湯田温泉には記念館も作られている中原中也。
本当に、孝行者だったんですね。

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