平安時代末期、6年にわたって繰り広げられた、源氏と平家の戦い(治承・寿永の乱)。
その最後の決戦「壇ノ浦の戦い」で、栄華を極めた平家は滅亡。源氏と平家の戦いにも終止符が打たれました。
そもそも、なぜ源氏と平家は戦っていたんだろう?
そこでこの記事では、「壇ノ浦の戦い」が起こった場所、その内容や経緯などをわかりやすく、詳しくご紹介します。
壇ノ浦の戦いはなぜ起こった?経緯は?
源氏と平家の対立
平安時代末期は、公家社会から武家社会への転換期。
平家は、天皇家の争いから生じた保元の乱・平治の乱で力を発揮し、中央でも権力を持つようになりました。
保元元年(1156年)、天皇の後継者争いから引き起こされた保元の乱が勃発。
平家は源氏とともに、時の権力者・後白河法皇(ごしらかわほうおう)のもとで戦い、勝利をおさめます。
平治元年(1160年)、平治の乱が起こります。
これは、平清盛(たいらのきよもり)との待遇の差に不満を持った源義朝(みなもとのよしとも)が、後白河法皇の側近・藤原信頼(ふじわらののぶより)と手を組んで起こした戦い。
後白河法皇についた平家と、藤原信頼についた源氏が対立したのです。
戦いは平清盛の活躍により平家側が圧倒的勝利をおさめ、源義朝は命を落とします。
こうして、平治の乱での勝利をきっかけに、平家が権力を掌握していったのです。
平家の栄華と安徳天皇の即位
天皇の厚い信頼を得ていた平清盛は、武士で初の太政大臣に任命されることとなります。
さらに宋(そう/中国の王朝)との貿易も管理し、その利益を独占。
莫大な富を得ていました。
また清盛は、娘の徳子を後白河法皇の第7皇子である高倉天皇に嫁がせます。
徳子と高倉天皇の間に生まれたのが、安徳天皇。
治承4年(1180年)2月、安徳天皇はわずか3歳で天皇に即位。
清盛は孫を天皇にすることで、権力を盤石なものにしたのです。
あまりの横暴ぶりに、後白河法皇はじめ周囲のものたちは、平家を排除しようと画策。
その動きに気づいた清盛は、後白河法皇を幽閉してしまったのです。
源氏の蜂起、源平合戦の始まり
この非常事態に、後白河法皇の第3皇子である以仁王(もちひとおう)と、再起のチャンスをうかがっていた源氏一門が手を結びます。
治承4年(1180年)4月、以仁王は源頼政(みなもとのよりまさ)のすすめにより、日本各地に散らばる源氏一門に、平家追討の令旨を発したのです。
この令旨は、以仁王の準備が整う前に平家に知られるところとなってしまい、失敗。
以仁王と源頼政は命を落とすこととなります。
しかし、以仁王の思いは全国の源氏一門に伝わり、源頼朝(よりとも)と木曽義仲(きそのよしなか)の2大勢力が打倒平家を掲げ、京へ向かって進軍。
こうして、源平合戦の火ぶたが切って落とされたのです。
源平合戦・壇ノ浦の戦いに至るまで
平家の都落ち
源氏は石橋山(現在の小田原)の戦いで敗れたものの、富士川の戦いで平家に勝利。
さらに、木曽義仲ひきいる源氏軍は、倶利伽羅(くりから)峠の戦いでも圧倒的勝利をおさめます。
このままでは義仲軍が都まで攻め入ってくる…。
恐れをなした平家一門は、安徳天皇、後白河法皇をお連れして西国へ逃げ、再起を図ろうとします。
ところが、平家が都を離れることを察知した後白河法皇が、源氏方へついてしまったのです!
これでは平家は朝敵(ちょうてき/天皇家の敵)になってしまうかもしれない…。
慌てた平家は、安徳天皇の正統性を示すため、歴代の天皇に伝わる「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」を持って都落ちします。
寿永2年(1183年)後白河法皇は、平家が幼い天皇を連れ去り三種の神器を持ち去ったとして、平家追討の命を発令したのです。
都落ちから壇ノ浦の戦いまで
木曽義仲軍から逃れた平家一門は、九州は大宰府近くまで逃れます。
西日本での勢力が強かった平家は、九州で支援を得て勢力を挽回。
寿永2年(1183年)10月には、水島(現在の岡山県)義仲軍の激突しますが、海上戦を得意とする平家軍が勝利をおさめます。
その後、同じ源氏の義仲軍と頼朝軍が味方同士で激突している間に、平家は一ノ谷へ(兵庫県神戸市)。
京都への復帰をうかがいます。
しかし、一ノ谷で義経軍の急襲に敗れた平家軍は、屋島(徳島県高松市)に後退。
屋島で海側からの源氏軍の攻撃に備えていたところを、陸から攻めてきた義経軍に襲われ、平家は下関に落ち延びたのです。
壇ノ浦の戦い
源氏が勝利した要因は?
壇ノ浦の戦いが起こったのは、1185年(元暦2年/寿永4年)3月24日。
戦いにおいて、平家軍は800艘を越える大船団。
対する源氏軍は、わずか400艘ほどだったといいます。
それなのに、海上戦に優位だった平家が、陸上戦主体の源氏軍に敗れたのです。
現在、関門橋がかかっている真下あたりが、海峡の幅がもっとも狭く、潮流が一日に四度も激しく流れを変える、海上の難所として知られる場所です。
その激しい潮流の変化を、源義経がうまく利用したというのです。
源氏は海峡の東側(長府沖)に陣を構え、平家は西側の彦島に陣を構えました。
朝6時ごろ開戦し、東へ流れる潮の流れにのった平家優勢で進んでいたのが、午後から潮流が西向きに変わり、平家は壇ノ浦に追い詰められて敗れたといわれています。
「三種の神器」はどうなった?
平家は都落ちする際、安徳天皇と「三種の神器」を持ち去りました。
源氏軍にとって、平家追討はもちろんですが、安徳天皇の身柄と三種の神器の奪還が至上命題となっていたのです。
壇ノ浦の戦いで平家の敗北が決定的になると、8歳の安徳天皇は、祖母である二位尼(にいのあま)に抱きかかえられ、海の中に沈んでいきました。
三種の神器のうち鏡は、平家の船の中に残されました。
しかし、まが玉と剣は二位尼が身につけて入水したため、海中に沈んでしまいます。
まが玉は源氏が探し出して手にしましたが、探せども探せども、剣は見つからないまま。
こうして、6年に及ぶ源平の合戦の末、天皇の命と草薙剣が失われてしまったのです。
あらたな剣が創出されたのは、壇ノ浦の戦いから4半世紀経ったあとでした。
建久10年(1191年)、後白河法皇はみずからの孫にあたる安徳天皇の菩提を弔うために、御影堂を建立させました。
なぜ源平最終決戦の地は壇ノ浦だった?
源平最終決戦後・壇ノ浦は、現在の山口県下関市。
当時は長門国と呼ばれ、清盛の四男である平知盛(とももり)の知行国でした。
彦島は関門海峡の西の入り口。
海上交通の要衝であった関門海峡は、日宋貿易での利益を独占していた平家にとって、まさに最後の砦。
関門海峡さえ失わなければ、日宋貿易による資金が得られ、京への復帰も目指せると考えていたのです。
壇ノ浦の戦いを偲ぶスポット
みもすそ川公園
関門トンネル人道入口の近くに整備されている「みもすそ川公園」。
関門海峡の幅がもっとも狭まり、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所「早鞆の瀬戸」を一望できる公園です。
壇ノ浦でそれぞれの軍を率いた源義経と平知盛の像、安徳帝御入水之処碑などが設置してあります。
壇ノ浦古戦場を見渡しながら、入水した安徳天皇と二位尼、平家一門を偲んでみませんか。
所在地:山口県下関市みもすそ川町1-1
赤間神宮
安徳天皇をお祀りしている神社。
関門海峡に面してそびえ、鮮やかな赤と白に色どられた門は、まるで竜宮城のようです。
この門(水天門)は1965年に建立されたもので、竜宮城のような形にしたのにはいわれがあります。
二位尼は安徳天皇と入水する際、天皇が怖がらないように「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは(海の下にも都はありますよ)」との歌を詠んだといわれています。
この歌からイメージして、現在の水天門が建てられたのです。
⇒【赤間神宮】山口県下関市のパワースポット・悲運の幼帝を祀る神宮の歴史や見どころは
まとめ
壇ノ浦の戦いについて、場所や時代、戦いの経緯などをご紹介しました。
源氏と平家、そして天皇家の権力問題などが絡み合って始まった源平合戦。
幼い天皇の命をはじめ、多くの人々の命が犠牲となって、新しい武士の時代へと進んでいったのですね。
ぜひ最終決戦の地・壇ノ浦へおいでの際は、海の底へと沈んで行った平家一門を偲んでいただければと思います。
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