こんにちは、防府市の主婦なんたんです^^
これまでご紹介を忘れていた方がいました。それは防府で生まれ育った俳人・種田山頭火です。

きっと、山頭火の俳句は聞き覚えがあるのではないでしょうか。しかし、その生涯をご存じでない方も多いかもしれません(わたしがそうでした・・・)。
昭和の芭蕉と呼ばれるほど旅の多い人生を送った山頭火。旅の中で多くの自由な俳句を生みだしましたが、その心には故郷・防府への思いがありました。
今回は種田山頭火の生涯と旅の中で生まれた有名な俳句などをご紹介します。

種田山頭火・波乱万丈の人生・・・

幼少時代と母の死

山頭火が生まれたのは明治15年。
生家は防府天満宮にほど近い場所にある代々続いた大地主で、その家の長男・正一(しょういち)として生まれました。
かなりの大地主の家だったそうで、地元では種田家を「大種田」と呼び、敬っていたのだとか。そのため幼少時代の山頭火は、かなり裕福で何不自由ない暮らしをしていたのです。

(防府市八王寺・山頭火生家跡)

そんな恵まれた生活でしたが、ある日を境に、種田家の歯車が狂い始めます。
正一が11歳の時、母フサが敷地内にあった古い井戸に身を投げて自殺します・・・。その時、父は旅行に行って不在だったそうです。
この突然の母の死は、種田家にも、山頭火にも暗い影を落としていきます。

文芸活動への傾倒と家の没落

小学校を卒業後、正一は次第に文芸活動に取り組むようになります。
そして明治35年に早稲田大学文学部に入学するために上京。大学で知り合った小川未明など将来の文学人らの影響もあって文学の才能が花開いていきます。
ですが明治37年、中途退学して実家に戻ってきます・・・。

その理由は神経衰弱症とのことでしたが、この頃種田家は傾き始め、田畑や家屋敷を売り始めたところでした。そのような状況から、帰京するように呼び戻されたのかもとも言われています。

どうにか種田家を盛り返そうと、父は正一名義で防府市大道に種田酒造場を開業しますが、これまでの「大種田」気分での経営なのでうまくいきません。それに、正一は商売よりも文芸活動に傾倒していきます。

そこで父は家業に専念させようと、正一を結婚させます。明治42年、28才の時でした。勝手に両家で決めた結婚だったそうです。
翌年、長男が誕生します。

しかし、やはり正一は文芸活動から離れられず、より一層活動が本格的になっていきます。
俳誌『層雲』などに投稿し掲載され、次第に五・七・五や季語にとらわれない新しい傾向の自由律俳句を発表するようになります。山頭火と名乗り始めたのもこの頃からです。

一方で酒造場は経営状態が良くならず、大正4年に倒産。父は行方知れずに

山頭火は妻と子とともに俳句の知り合いを頼って熊本に行きます。
俳句を通して多くの友人ができていたのです。

熊本で友人たちの協力により、古本屋「雅楽多」(がらくた)を開店。開店資金は妻の実家から出してもらったようです。
古本屋は評判が良かったようですが、だんだん本を集める手立てがなくなり、古本屋から額縁や絵はがきを売るようになっていきます。山頭火や店を妻に任せて行商に出ることもあったそうです。

弟の死と曲がりくねる人生

熊本での生活が軌道に乗り始めたかのように見えたころ、またもや山頭火の人生を大きく変える出来事が起こります。
それは、弟・二郎の死です。

二郎は母が亡くなった後、養子に出されました。
しかし父は養子先の家からの多額の借金を返済できなくなり、種田家が破産したときに二郎は養子先から縁を切られました。
家もなく行く当てのない二郎は大正7年に岩国の山中で自殺
この弟の死が、これからの山頭火の生涯を変えていったといえます。

大正8年、38歳の時に妻と子を残して山頭火は突然上京してしまいます。

上京している間に妻とは戸籍上離婚、父は亡くなります。
本採用の仕事を得ていましたが、神経衰弱症で退職。
震災が起こるなどすべてが順調に進まず、離婚したはずの妻がいる熊本に、ぼろぼろになって帰ることになります。

熊本では酒浸りの毎日。
大正13年、ついに酔っぱらって線路に仁王立ちになり、路面電車を急停車させてしまいます。本人も周りにもケガ人が出ず、不幸中の幸いでした。
そこを偶然通りかかった知人に助けられ、近くのお寺に連れていかれた山頭火は、なんと寺男としてそのお寺に住み込むことになります。

そして大正14年に出家得度、曹洞宗の禅僧となり、しばらくやめていた俳句の創作活動も復活してきます。
托鉢や朝夕のお勤めや近所の人たちに日曜学校を開いたりして穏やかに過ごしました。しかし、そんな日々は長続きしませんでした。

行乞流転の旅へ~句作の旅~

名句「分け入っても分け入っても青い山」誕生

大正15年、漂泊の自由律俳人・尾崎放哉(おざきほうさい)が41歳の若さで亡くなります。
それまでのすべての生活を捨てて俳句に生きた放哉に影響を受けた山頭火は、鉄鉢ひとつを持って托鉢をする、行乞(ぎょうこつ)の旅に出ます。
山頭火、45歳の時でした。

分け入っても分け入っても青い山

有名なこの句は、初めて行乞の旅に出たときに、宮崎県高千穂あたりの山中で詠んだ句で、山頭火が俳人として生きていこうと決意したときに生まれた句だといわれています。
この句には「解くすべもない惑ひを背負うて行乞流転の旅に出た」と前書きがあります。

もがいてももがいても、うまくいかず出口が見えない人生。
どうしたらよいのだろう・・・どうにもならない思いを背負ったまま、一人、鉄鉢だけを持って旅に出たのです。
山の中を歩いても歩いても、どこまでいっても青い山。八方ふさがり。

その中で残されたのは、旅をしながら句を詠むこと
山頭火は「まわりにある自然に接しながら、無心にラクラクと歩いているときに、ポツポツと句が浮かぶ」と言っています。
無心に歩を進めながら句を詠むことで、自分の生きる道を見出そうとする山頭火のひとり寂しい、けれど求道者の姿を感じます。

山頭火にとっての「旅」

途中一年ほど熊本に一人暮らしする時期もありましたが、昭和7年までの7年間、山頭火はとにかく九州、中国、四国地方を歩き続け、俳句作りを行います。
熊本ではお酒で失敗して、また旅に出ることになったんですけれどもね。

ほんとにお酒と俳句を通じての友人が大好きだったようです。
そしてその人柄からか、どうしようもない失敗があっても友人たちが手を差し伸べてくれていました。

歩かない日はさみしい、
飲まない日はさみしい、
作らない日はさみしい、
ひとりでゐることはさみしいけれど、
ひとりで歩き、
ひとりで飲み、
ひとりで作ってゐることがさみしくない。

(『防府の生んだ自由律俳人山頭火』防府市文化協会より)

昭和5年に詠まれた句です。
歩くことは句を作ること。ただただ、自分が生きていることを感じるのは、一人が寂しくても、歩き、ぽつぽつと浮かぶ句をつぶやくように読むこと。
その後、精神的に行き詰まって睡眠薬を大量に飲んだこともありました。
この出来事で、「やはり自分にとって、自分をいちばん生き生きさせることが出来るのは『旅』である」と気づきます。

53歳になっていた山頭火は、芭蕉や良寛の足跡を巡ろうと東北に向かいます。
旅では多くの友人に応援され、交流を深めたそうです。7か月半の長旅を終え感想を記しています。

「芭蕉は芭蕉、良寛は良寛である。芭蕉にならうとしても芭蕉にはなりきれないし、良寛の真似をしたところで始まらない。
私は私である、山頭火は山頭火である。・・・(中略)・・・私は山頭火になりきればよろしいのである、自分を自分として活かせば、それが私の道である

晩年・自分の句集と「ころり往生」

(新山口駅新幹線口にある山頭火像)

その後も人生の安住の地を探して、失敗をしながらも何度か旅に出て何ヶ所かに庵を結びます。
小郡の其中庵、山口の風来居を経て、昭和15年に四国は松山の一草庵へ。
終の棲家である一草庵で一代句集『草木塔』を出版します。
その句集の扉ページには、

「若うして死をいそぎたまへる 母上の霊前に 本書を供へまつる」

と記されていました。
たくさんの紆余曲折をへて自分を得た波乱万丈の人生は、すべてお母様に捧げるためだったのでしょうか。

句集を携え最後の旅に出た山頭火、これまでお世話になった友人たちに句集を贈呈して歩きます。
そして昭和15年、満58歳で脳溢血による心臓麻痺で亡くなります。まさに「ころり往生」だったそうです。

まとめ

裕福な家に生まれながら、運命に翻弄されびっくりするほど波乱万丈の人生を生きた山頭火。
自分勝手に上京したり、お酒におぼれて無銭飲食などの迷惑をかけても、彼から人が離れることはなく、手を差し伸べてくれる。そして離婚した奥さんや子どもさんともよい関係を続けられたのは、山頭火という人の自分に対する誠実さや人を大切にする人柄からくるものでした。

旅だらけのパワフルな人生で、失敗だらけで、人に助けられて、やっと自分の句に行きついて。迷いながらも自分を確立していくその姿は、現代の多くの人々の共感を得るものではないでしょうか。
わたしも今回じっくりと山頭火の生涯をたどる機会を得て、少しの笑いと大きな勇気をもらいました。
失敗だらけでも、大丈夫。一歩、踏み出してみませんか、と。

(『防府の生んだ自由律俳人山頭火』防府市文化協会 を参考にさせていただきました)