こんにちは、防府市の主婦なんたんです^^
「長州ファイブ」、ご存じでしょうか。長州五傑といわれる5人の藩士です。
2007年、松田龍平さん主演で映画にもなりましたね。

あたり前ですが、幕末当時から「長州ファイブ」という呼称があったのではありません。
長州ファイブという呼び方は、2002年に全日空の機内誌で紹介されたようです。
イギリスの研究家が長州からの密留学生を研究、その時の呼称が「長州ファイブ」だったんですね。

山口県内では長州五傑という呼び名のほうが知られていますが、映画化にともなって、長州ファイブという呼び方が広く知られるようになりました。

幕末の長州からヨーロッパに密留学した長州藩士5人。
時代背景や長州ファイブとは誰なのか、帰国後どんなことを成したのか、じっくりと解説します。

長州ファイブ 当時の時代背景は

幕末、諸外国が日本に通商を求めて来航する中、1854年(嘉永6年)、アメリカ提督であるペリーが浦賀に来航。日米和親条約を締結します。
長く国を閉ざしていた日本は、ついに開国に踏み出します。

その後、アメリカ総領事であるハリスが通商条約を結ぶために来航。
1858年(安政5年)、幕府の大老である井伊直弼が、天皇の許可を得ないまま日米修好通商条約を締結。日本にとって不利な内容の条約でした・・・。
アメリカに次いでオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同じような条約を結んでいくことになります。

幕府は外国の情報を得るために、積極的に海外へ使節団を派遣。
その一方で国内には倒幕への動きが生まれてきます。

長州藩でも尊王攘夷思想が高まり、幕府が定めた攘夷を決行すべく1863年(文久3年)、関門海峡でアメリカ商船を襲撃。この砲撃が、のちに列強四国と長州藩との戦争(下関戦争)になり、長州軍は完敗することになります。

しかし攘夷を決行する陰で、長州藩は秘密裏にある計画を実行しようとしていました。
それが、長州藩士5人を藩首脳部が黙認した形で密航させるという計画だったのです。

長州ファイブ 海外渡航は死罪の幕末に、密留学へ

幕府が攘夷の日を定めたころ、長州藩は藩の若者を外国に出し、新しい文化や技術を学ばせようとしていました。

藩の要職についていた周布政之助が留学を判断し、藩主に進言、了承を得ます。
渡航費用は、船賃と一年間の学費、生活費まで含めると一人千両が必要だったそう。千両は現在の1億3千万円。まさにとんでもない金額でした。
資金は周布政之助が仲介したり、どうしても足りない部分は藩のお金を担保に借金をして工面したそうです。

当時海外への渡航は死罪。長州藩は将来の藩のために渡航を黙認。脱藩の形で密留学を計画したのです。
外国に行く藩の若者は、はじめは井上勝、山尾庸三の2人の予定でしたが、のちに井上馨、伊藤博文、遠藤謹助が加わりメンバーは5人に。
長州藩の、日本国の将来がこの5人に託されのです。

5人が密航したのは1863年(文久3年)5月11日。この日は下関海峡で長州軍が外国船の砲撃を開始した日の翌日でした。
長州藩は表向きは攘夷を実行しつつ、裏側では将来を見据えての人材育成を行っていたのです。

5人は「生きた器械」となることを約束し、旅立ちます。
彼らは様々な苦難を乗り越えロンドンにたどり着き、ロンドン大学で学問や技術を学んでいきました。そして言葉どおりの「生きた器械」(技術を身に着けた人)になっていったのです。

長州ファイブのメンバー

ロンドンでそれぞれの専門に分かれて知識を吸収し始めた5人でしたが、1864年(元治元年)4月、井上馨と伊藤博文が急遽帰国。
長州藩が下関で諸外国と戦争したこと、薩摩藩がイギリス艦隊と戦争したことが書かれていた新聞を読み、このまま攘夷にすすんでは日本が大変なことになると直感したからでした。

1866年、遠藤謹助も体調を崩し帰国してしまいます。
結局、山尾庸三と井上勝の2人が帰国令が出るまでイギリスに残ることになりました。

伊藤博文(いとうひろぶみ)~初代内閣総理大臣~

伊藤博文は5人のなかでも初代内閣総理大臣としてとても有名な人物ですね。

帰国後、身に着けた英語力や交渉力を駆使し、倒幕にむけての武器、軍艦の購入に尽力します。
新政府では次々と改革にとり組み、鉄道を造ることを決め、貨幣制度の整備などを行います。また政治の仕組みを、西洋にならった内閣制度に変え、1885年(明治18年)、みずから初代内閣総理大臣に就任。憲法を発布し、国会も開設。

博文は4度内閣を組閣。最後は中国、ハルビン駅で狙撃され命を落としました。
命をかけて開国後の国の基盤をつくっていったのが、伊藤博文でした。

井上馨(いのうえかおる)~初代外務大臣~

帰国後すぐに、諸外国と戦う長州藩に攘夷をやめるよう説得を試みるが失敗。四国列強の砲撃が始まり、3日で間で藩は敗北してしまいます。
その後、武備恭順(武力を整えてから幕府に従う)を主張しますが、俗論派(幕府の命にしたがう)の対立派によって襲われ、何とか命を取り留めるほどのひどい傷を負いました。

幕府が幕を閉じた後、馨は長崎を経て大蔵省の責任者となり、銀行の設立などに努めます。しかし財政を考えない政府に怒りを感じ、明治6年辞表を提出。
事業家に転身、鉱山や貿易に携わる先収会社(のちの三井物産)を設立します。

このころ、鉱山を独断で民間会社に払い下げたことで、横領の容疑がかかっていたそうです(罰金を支払うことで解決)。

明治8年、ふたたび新政府に復帰し、幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正に尽力。
1885年(明治18年)、伊藤博文による初代内閣が組閣され、この時、初代外務大臣に就任します。
ですが、不平等条約の改正に行き詰ったことに責任をとり、1987年(明治20年)辞任。

日本が諸外国と対等につきあえるよう外交家として力を尽くし、伊藤博文を支え続けました。

山尾庸三(やまおようぞう)~工業の父、人材育成の父~

ロンドンで造船技術を必死で学んだ山尾庸三は、工業を興す道をすすみます。
帰国後、ロンドンでの経験からさまざまな意見書を提出。設置を主張していた工部省の設置にみずから携わり、鉄道の建設にかかわりました。

これからの人材を創る必要性を感じていた庸三は、人材育成にも積極的に意見を提案。工部大学校を開校します。
彼が開校した工部大学校からは次々と人材が生まれていきました。

またロンドンで手話と出会い、どんな人でも分け隔てなく働ける環境を日本でも作りたい、との思いを持っていた庸三。
もうあ学校をつくる意見書を提出し、訓盲院を開校させます。
日本に手話をもたらし、生涯を通じて障がいのある方の社会参加に尽力した人物でした。

ちなみに、映画では山尾庸三を松田龍平さんが演じられました。

井上勝(いのうえまさる)~鉄道の父~

井上勝はロンドンで5年、鉄道と鉱山について専門的に学びました。
帰国してからは鉄道建設の開始にともない、政府の鉄道部門の責任者に。明治5年には鉄道頭(てつどうのかみ)専任になり、同年日本初の鉄道である新橋・横浜線を開通させます。

開通した日、天皇から「日本全国に鉄道を拡張してほしい」の言葉があり、勝は全国に鉄道を敷く決意をします。

当時は外国人技術者に頼っている状態でしたが、一日も早くすべてを日本人の手で鉄道をつくりたい。それが井上勝の夢でした。

のちに日本人だけの手でトンネルを完成させ、日本製の汽車を作り始めました。とにかく鉄道に関しては右に出るものがいない。全生涯を鉄道にささげたのが井上勝だったのです。

遠藤謹助(えんどうきんすけ)~造幣技術の確立者~

遠藤謹助はロンドンで造幣について本格的に学びますが、病気のため志半ばで帰国します。

帰国後、貨幣製造技術の向上と確立、貨幣技術者の養成に力を尽くしました。
1870年(明治2年)造幣権頭として赴任し、そこから造幣ひとすじの人生が始まります。造幣局(旧造幣寮)の大改革を行い、日本人の手で貨幣を造ることに成功。日本の貨幣事業を確立しました。

春に必ずといってよいほどテレビで映し出される造幣局の桜は、謹助が「造幣局員だけでなく、大阪市民と桜を楽しもう」と提案したもの。今も桜の通り抜けは続けられ、人々の目を楽しませています。

まとめ

長州ファイブ(長州五傑)をご紹介しました。
今回5人それぞれの功績を調べてみて、この方々が命をかけて密留学し、帰国後に資質を発揮してそれぞれの分野で活躍されたからこそ、今の日本があるんだな・・・と心から実感しました。

当時の留学は、金銭面でも制度の面でも命がけ。渡航途中で命を落とすかもしれないし、帰国できないかもしれない。そんな危険があるとわかっていても、藩のため、国の将来のために外国の進んだ文化と技術を自ら習得し、「生きた器械」となることを約束した5人は、まさに長州五傑。
今自分が暮らしているこの山口県から、このような志のある人々が活躍していたのだと思うと、自分も山口県のために、人のためにできることを少しでもしていきたい、子どもたちにも長州ファイブを伝えたい、とあらためて思いました。

長州ファイブの顕彰碑はロンドン大学に建てられており、地元山口県では山尾庸三の生誕の地である山口市秋穂二島に作られています。