ふぐの街として有名な下関。
下関の水族館・海響館は世界一のふぐの展示数を誇り、街を歩けばふぐのお土産やイラストが目に飛び込んできます。
また下関では、ふぐのことをふくと呼び、「ふぐは不遇に通じ、ふくは福すなわち幸福につながる」としてきました。

こうして下関で親しまれているふぐですが、そこに至るまでには波乱万丈の歴史がありました。

なんたん
なんたん
歴史を紐解いてみると、下関の発展とふぐ食の歴史は切っても切れない関係にあるんですよ

そこで今回は、ふぐ食の歴史、ふぐと下関の関わりについてご紹介します。

縄文時代から食べられていたふぐ

冬の味覚、ふぐ。
鍋やお刺身、唐揚げ、ひれ酒など、日本人はふぐ料理が大好きですよね。

およそ6,000年前の縄文時代の人たちも、他の魚や貝とともにふぐを食べており、貝塚からたくさんのふぐの骨が出土しています。

農耕文化が盛んになり、畑や田んぼで作物を作るようになってからは、そこまで多くのふぐの骨は見られなくなりました。それでも飛鳥時代や平安時代の文献には、ふぐの名前が登場しています。

ふぐは食べることを禁止されていた

古くから親しまれてきたふぐですが、およそ300年にわたり、ふぐ食禁止令が出された時期がありました。

安土桃山時代、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本各地から下関(九州の唐津という説もあり)に集まった兵士たちの中に、フグを食べて中毒死する兵士が相次ぎました。
ふぐに毒があることを知らない兵士たちが、ふつうの魚のように調理して内臓まで食べてしまったのです。

慌てた秀吉は、立て札にふぐの絵を描かせ、「この魚食べるべからず」とふぐ食禁止令を出したと言われています。

つぶた
つぶた
ふぐ食を禁止したのは秀吉だったのか!

秀吉の世が終わり、江戸時代になってもふぐ食は禁止のまま。
各藩でふぐ食禁止の取り締まりが行われました。余程危険な食材とされていたのですね。

中でも武士への罰則はとても厳しく、ふぐを食べて中毒死した場合には、家禄没収・家名断絶の厳しい処分が下されました。
お家そのものが取り潰されるほどの厳罰が処されていたとは、驚きですね・・・!

武士階級への取り締まりが厳しい一方、庶民の間では、こっそりとふぐ食が広まっていました。

なんたん
なんたん
ダメって言われたら余計に食べたくなるものですよね。おいしいものなら尚更です

ふぐ料理が発展したのもこの時代。
江戸時代の料理書『料理物語』には、「ふぐとう汁(ふぐ汁)」のレシピが記されています。

また、有名な松尾芭蕉や小林一茶の句の中にも、ふぐの名が。

あら何ともなきや きのふは過ぎて ふくと汁(芭蕉)
五十にて 河豚の味を 知る夜かな(一茶)

2015年に放送された大河ドラマ「花燃ゆ」の中でも、松下村塾の塾生たちがふぐ食論争の末、ふぐ鍋を食べるシーンがありました。
この時、先生である吉田松陰はふぐを食べず。
松陰が食べなかったのには理由があり、志の果てに迎える死以外で死にたくないとのこと。なるほど。食べたくても志のためにぐっと我慢したのですね。

運が良ければ美味満喫、運が悪ければ死という、まさに死を覚悟してのふぐ食。
そのおいしさから、幕末の志士をも魅了する食材だったのです。

ふぐ食解禁は下関の地で

厳しい取り締まりの中でも、おいしさのあまりこっそりと広がっていたふぐ食。しかし、明治時代になっても全国的にふぐ食は禁止されたまま。

長きにわたるふぐ食を解禁したのは、松下村塾で学び、初代総理大臣になった伊藤博文でした。

【現在の春帆楼・日清講和会議の舞台にもなりました】

1888年(明治21年)、伊藤博文は下関市の春帆楼(しゅんぱんろう)に宿泊。
その日は時化で魚がまったく取れず、困り果てた女将さんは、打ち首覚悟でふぐをお膳に出しました。

ところが、ふぐを食べた伊藤博文はそのおいしさに感動!
山口県知事にふぐ食解禁を働きかけ、山口県下ではふぐ食が認められたのです。

つぶた
つぶた
およそ300年続いたふぐ食禁止が、伊藤博文の一言のおかげで解禁されるなんて

春帆楼は、ふく料理公許第一号店に。
こうしてふぐとともに下関は発展していきました。

下関がふぐの本場に!

ふぐ食解禁の舞台になった下関。
大正時代から下関はふぐの集積地になり、ふぐ食が盛んになったことから、「下関といえばふぐ」が定着しました。

つぶた
つぶた
解禁の地で初代総理大臣のお墨付きがあるのだから、当然だろうね

戦後、下関がふぐの漁獲量日本一になった時期もありましたが、しだいに漁獲量が減少。
今では水揚げ量トップ3にも入っていません。

それでもふぐの街と言われるのは、下関が日本一のふぐの集積地になったからです。
下関の魚市場である唐戸市場から分離し、全国で唯一、ふぐを専門に取り扱う市場「南風泊市場(はえどまりしじょう)」が設置されました。

南風泊市場は、ふぐのセリや毒のある部分を除く解体作業、加工など、ふぐの取引に関することに特化した市場。
他の魚にはない特殊な事情ゆえに、こうした特別な市場が生まれたのですね。

こうして下関は、今もふぐ取扱量一位の街として栄え、ふぐ料理のお店やふぐを使ったお土産をたくさん目にすることができます。

まとめ

今回は下関とふぐ食の歴史をご紹介しました。

わたしは下関で生まれ育ったので、小さい頃からふぐには親しみがありました。といっても、唐揚げや一夜干しをときどき食べているぐらいで、ふぐ刺しは大人になるまで食べたこともなく・・・。地元にいるとそんなものですよね。

地元の方にも県外の方にも、下関がふぐで知られるようになった歴史を知っていただけたら嬉しいです。

※内容については、協同組合下関ふく連盟HP、春帆楼HP、wikipedia ほかを参考にしました。