東大寺の再建に尽力したことで知られる重源上人(ちょうげんしょうにん)。今年は生誕900年にあたります。

山口市徳地の佐波川沿いには重源上人の像があり、防府の地にも大変ゆかりのある人物ですが、重源上人がどんなことをした人物なのか、よくわからないという方も多いのではないでしょうか。

なんたん
なんたん
うちの子たち、重源さんという人物を知らないみたいだわ・・・
つぶた
つぶた
せっかく防府にゆかりのある人物なのに、徳地には重源上人の名を冠した「重源の郷」があるのに、その功績を知らないなんてもったいないね

そこで今回は、重源上人がどんなことをしたのか、功績や人物像、今も残されている史跡などを調べてみたので、ご紹介しますね。

重源上人と東大寺再建

東大寺再建の大プロジェクトリーダーになる

写真ACより/東大寺)

平安時代、奈良の東大寺は地震や失火、落雷などで被害を被っていました。
とどめになったのが、平安末期、1180年の平重衡による南都焼討。

伽藍(がらん:お寺の建物の総称)の大部分が焼けてしまい、大仏も熔けてしまう大打撃を受けたのです。

「国家の安寧と国民の幸福を祈る」ために建立された東大寺がすっかり焼け落ちてしまい、京の都は大きく動揺します。

そんな時に東大寺の再建を申し出たのが、日本各地で仏法を広めたり、道や橋、池の修理などの活動を行っていた重源でした。
視察に来た後白河法皇の使者に再建を進言し、東大寺大勧進に任ぜられます

重源、なんと61歳で国家の威信をかけた大プロジェクトのリーダーになったのです。
びっくり!

周防国の国司になって東大寺を再建

しかし、東大寺の再建はかなり難航します。

1185年に大仏は完成しますが、当時の都は、源平の内乱で財政は窮乏。
さらには1181年には養和の飢饉が襲い、人々は疲弊を極めている状況だったのです。

なんたん
なんたん
そんな危機的状況の中、どうやって再建の任務を完遂したのかしら
勧進活動(かんじんかつどう:寺社建立のための寄付を募る活動)で必要な資金を集め、さらには後白河法皇や源頼朝などに寄付をお願いしていたといいます。

1186年、周防の国(今の山口県)の税金は東大寺再建のための費用に充てられることになり、重源は周防の国司(現在の県知事のような任務)として赴任してきます。

再建のための材木を調達するため、みずから佐波川上流の徳地の地に入り、用材の切り出しや搬出を指揮
大きな材木の運搬は困難を極めましたが、佐波川を使って材木を海まで運び、そこから船で奈良まで運搬したのでした。

(佐波川関水)

このとき、川底が浅くて材木が流れにくい箇所には、川をせきとめて水位を上げ水路をつくりました。

これは関水(せきみず)と呼ばれ、百数十か所つくられたとされていましたが、残っているのはたった1か所だけです。

つぶた
つぶた
およそ1000本もの徳地産の材木が奈良まで運ばれたそうだよ
なんたん
なんたん
宋(当時の中国の国)に3度渡り、そこで関水などの新しい建築技術を学んできたんですって

佐波川関水についてはこちらでご紹介しています。
佐波川関水とは?地図は?駐車場はある?初夏はホタル、夏は水遊びスポット



そして周防に赴任して9年後の1195年、無事大仏殿は再建
東大寺大仏殿再建という大プロジェクトの任務を、見事に果たしたのです!

(写真ACより/東大寺南大門)

大仏殿再建のあとも、四天王像、戒壇院、南大門などを建てますが、東塔造営の途中、1206年に86歳で死去しました。

なんたん
なんたん
東大寺再建にその半生をささげたのね

その後、室町時代に東大寺の伽藍はふたたび焼失。
江戸時代に、大仏や大仏殿は当初の約3分の2の大きさで再建されました。

源平の争乱で困窮した時代だったのに、今ある伽藍よりももっと大きかったとは。重源上人の手腕に驚きですね!

つぶた
つぶた
今残っている南大門は、重源上人が再建した時のものだよ

重源上人が周防国に残したものは?

重源上人は社会事業に尽力した人物です。

日本全国にお寺を建立し、何か所もの橋を架け、池を修築しました。
また湯屋をつくり民衆に勧めたといわれています。

重源上人の残した社会事業は、国司として赴任していた周防国(山口県)に数多く残っています。

東大寺別院周防阿弥陀寺

防府市牟礼にある東大寺別院周防阿弥陀寺は、1187年、後白河法皇の現世安寧を願って創建されました。

仁王門の金剛力士像(国指定重要文化財)、宝物庫には鉄宝塔(国宝)など、貴重な文化財が数多く所蔵されています。

疲れた労働者のためにつくった湯屋、石風呂

仁王門の近くには、東大寺再建の材木の切り出しに従事した人たちのために重源がつくった湯屋、石風呂が残されています。

なんたん
なんたん
湯屋はいまのお風呂。公衆浴場ですね
仏教では病を退け福を呼び込むとして、入浴が奨励されていたそうです。そのため、寺院では湯屋をつくって、貧しい人々や病気の人などに入浴をうながしていました。

また、ケガ人や病人の身体を癒すために、薬草を敷いて使う石風呂も設置。
防府・徳地周辺に、なんと約60か所もつくったそうですよ!

阿弥陀寺の石風呂は2つあり、新しい石風呂は、毎月第一日曜日に焚いています。

つぶた
つぶた
徳地には岸見岩風呂や野谷の岩風呂が残されているね

月輪寺薬師堂

山口市徳地にある月輪寺薬師堂は、県内最古の木造建築です。

社伝では、月輪寺薬師堂はもともとは佐波郡の清涼寺村にあり、聖徳太子が創建したと伝えられています。
その後、重源が東大寺再建のため徳地の杣山に入った際、藤原兼実(ふじわらかねざね、当時の公卿)の助力を得て、薬師堂を再興しました。

合わせてどうぞ。月輪寺薬師堂についてはこちらでご紹介しています。

法光寺・重源上人が創建した安養寺の遺構

山口県photo素材集より)

山口市徳地の法光寺阿弥陀堂は、重源上人が創建した安養寺の遺構です。
徳地の材木を切り出すの際の拠点として、安養寺を建立しました。

阿弥陀堂には5体の仏像が安置されており、県の指定有形文化財に指定されています。

つぶた
つぶた
お寺の周りは公園として整備されているよ

防府天満宮の社殿をつくったのも重源上人

(玉祖神社)

東大寺再建ののち、重源は寺院の造営や造り替えを行います。

あの防府天満宮の社殿をつくったのも重源上人です。
無事に東大寺再建が叶ったのは天神様のご加護のおかげ、と松崎天神(防府天満宮の当時の呼び名)の社殿の造営を申し出たそうです。

そのほか、防府市にある周防国一宮玉祖神社も、重源上人が社殿の造り替えを行いました。

なんたん
なんたん
東大寺再建だけではなくて、お寺をつくったり人々のための活動を精力的におこなったのね。超人みたい

まとめ

今回は周防国に赴任して東大寺再建を行った、重源上人をご紹介しました。

国家の威信をかけたプロジェクトを成功させた人物ですが、ゆかりのある山口ではあまり知られていないのかな、と感じます。

徳地では道路沿いに重源上人の銅像が建てられていたり、法光寺周辺がきれいに整備されていたりするのですが・・・。今回調べてみて、こんなにも防府や徳地には重源上人ゆかりの史跡があるのか、とおどろきました。

なんたん
なんたん
まさか防府天満宮の社殿が重源上人によるものだとは!

防府、徳地にたくさんの足跡を残している重源上人を、もっと地元の人に知ってほしいですね。