
「幕末の長州藩を代表する志士といえば?」
そう聞かれてまず初めに思い浮かぶのは、「高杉晋作」ではないでしょうか。
高杉晋作といえば、奇兵隊を創設したことで有名な人物。尊王攘夷派の中でも、とくに過激な思想の持ち主でした。


幕末の長州に彼がいなかったら、歴史が変わっていたかもしれないほどの人物なのよ!
高杉晋作の生涯
生涯の師・吉田松陰との出会い

天保10(1839年)年8月20日、高杉晋作は高杉小忠太・ミチの長男として生まれました。
高杉家は、戦国時代から毛利家に仕える家臣の家。
代々藩内の要職を担ってきた上級武士の家系で、晋作も長州藩のエリートであるという誇りをもって育ちました。
藩校明倫館に通い、剣術修行に励んでいた晋作でしたが、19才の頃、生涯の師・吉田松陰と出会い松下村塾に入塾します。
吉田松陰といえば、黒船来航の折には密航を企て投獄されるなど、藩の重役たちにとっては、暴挙を働いた危険人物でしかありませんでした。

もちろん名門高杉家にとっても、松陰との関わりはよしとするものではなく、晋作は身内に内緒で入塾。塾へ行くのを隠すため、夜遊びに行くふりをして塾に通ったそうです。

晋作が文学修行の名目で上京し、松陰が江戸で再投獄された後も、最期まで親交は続きました。
上海行きを経て決起、奇兵隊結成へ
文久2年(1862年)、藩の上海派遣使節団に加わった晋作は、欧米列強に支配される中国の人々を見て、衝撃を受けます。
当時の上海は、アヘン戦争の敗戦により列強の植民地化政策がエスカレートしていた時期。
油断すれば、日本も同じような状況になるかもしれない・・・。
危機感を強めた晋作は、帰国後、藩の制止を振り切って、同志らとともに建設中だった英国公使館を焼討。
激しい攘夷運動を展開します。
それでも弱腰の藩の姿勢に失望した晋作は、職を辞し、10年の暇を申し出るのでした。

文久3年(1863年)、長州藩は攘夷を決行。
関門海峡にて外国艦を砲撃しますが、反撃を受け惨敗してしまいます(下関戦争)。
欧米列強と長州藩、その戦力の差は歴然としていました。
隠棲中にもかかわらず藩主から呼び出された晋作は、下関の防御を命じられ、その場で奇兵隊の結成を宣言。初代総督に就任します。

山口に呼び出された晋作は、連合国との講和交渉を任されます。
晋作は「悪魔のように傲然」とした態度で交渉に臨み、講和は無事に締結。
連合軍が提示してきた賠償金の支払いには、攘夷決行は幕府が決めた方針に従っただけであると、断固として応じませんでした。
結局、賠償金の請求は、幕府に突き付けられることになります。
もしも連合軍との講和交渉に晋作がいなかったら、長州藩は賠償金支払いに応じることになり、軍資金が底をついて弱体化。
その後の維新への歴史も、大きく変わっていたかもしれません…。
功山寺挙兵
長州藩が外国艦隊砲撃事件の対応に追われていた頃、京都ではまた別の問題が持ち上がっていました。
薩摩・会津藩によるクーデター(8月18日の政変)で、長州藩は京都から追放。翌、元治元年(1864年)には、巻き返しを図った京都での武力衝突(禁門の変)に失敗。
その責任を追及された長州藩は朝敵となり、朝廷は幕府に長州征討を命じたのです。
このできごとに、藩内は俗論派(保守派)と正義派(尊王攘夷派)に分裂。政局は混乱を極めます。
俗論派が力をつける中、命の危険を感じた晋作は萩を脱出。福岡の平尾山荘に身を隠します。
しかし、藩内正義派の家老たちの処刑を知り、俗論派を倒すために下関に帰還。
長府の功山寺にて、遊撃軍と伊藤俊輔率いる力士隊、2隊あわせてわずか80人の同志とともに決起します(功山寺挙兵)。

少ない人数も何のその。
奇策により勝利をおさめ続け、次第に協力者も増えて、最終的に軍は3000人にも膨れ上がったそうです。
その勢いのまま藩内を武備恭順に統一し、藩の実権を掌握します。
こうして晋作の挙兵によって藩内の内戦がおさまった頃には、幕府による長州再征討が進められていました。
慶応元年(1865年)、幕府軍が周防大島に攻撃を開始し、幕府軍と長州藩は全面戦争に突入します(四境戦争)。
晋作はこの戦争でも小倉口の指揮官として活躍し、小倉城を落とすことに成功。
大きな手柄をあげました。
しかし、打倒幕府軍を目の前にして、晋作の身体は結核という病魔に蝕まれていました。
慶応3年(1867年)のはじめにはすべての役職を解かれ、下関の桜山で療養中に、29才(満27才8か月)の若さで亡くなりました。
高杉晋作の功山寺挙兵については、こちらでご紹介しています。
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晋作の人柄がわかるエピソード
晋作にまつわるエピソードは山のようにあるのですが、ここでは晋作がどんな人だったのかを垣間見られるエピソードなどを紹介します。
負けん気が強い少年時代
萩の町には、晋作に関するいくつかの逸話が残っています。
近所の子たちが恐れた、円政寺金毘羅堂にかけられた巨大な天狗面を、晋作だけが喜んで見に行っていたそうです。

また、罪人が処刑されるのを見物に行った晋作は、他の子たちが怖がって帰ろうと言い出したにもかかわらず、弁当を食べながら、首がさらされるまで見学していたとか。
ほかにも、晋作が遊んでいた凧を、誤って踏んで破ってしまった侍に激しく抗議。最後には物陰で土下座させたとの言い伝えも…。
上級武士の家に生まれた誇りもあったのでしょうね。
子どものころから負けん気が強くて、何に対しても臆することがない性格でした。
松下村塾では、吉田松陰が晋作の負けず嫌いを利用して晋作を成長させました。
入塾当初、自分流にものごとを見る癖があった晋作を、どうにか良い方向にのばしたいと考えた松陰は、ライバルとして秀才・久坂玄瑞をあてがい、久坂をほめちぎります。
おもしろくない晋作は、負けたくないと猛勉強!
みるみる学力が伸び、晋作と久坂は塾の双璧といわれるまでに成長したのです。
顔は面長、身長は小柄

今も残されている晋作の写真を見てわかるように、「乗った人より馬が丸顔」と評されるほど、面長でした。
また、身長は小柄で、150㎝半ばぐらいだったのではといわれています。
本人も小柄であることを気にかけ、直立して撮った写真は存在しません。
小柄ではありますが、長い刀を好んで愛用しており、まるで刀を引きずって歩くようだったそうですよ。
晋作と妻の夫婦関係
江戸遊学から帰国してすぐの万延元年(1860年)、晋作は婚礼の式をあげます。
晋作22歳、妻まさ16歳でした。
まさは萩城下でも指折りの美人で、その家柄もよく、持ち込まれる縁談は山ほどあったのだそう。

本当のところはどうだったのでしょうね…。
結婚後、すれ違いでほとんど結婚生活らしいものを送っていなかった二人でしたが、晋作はこまめに妻に手紙を書き、喜びそうな品物を送って、心づかいを忘れなかったそうですよ。
ある時、結成当初の奇兵隊が死者を出す惨事を起こし、切腹を覚悟した晋作は、まさに遺書をしたためます。
自分が死んだら家を守って操を立てて、自分の供養を続けてほしいと、武士の妻としての心得を説き、最後には「死んでもあなたのことは忘れない」との文句まで入れたそう。
妻への思いを書き記したこの遺書には、まさも涙だったでしょうね…。
三味線を持ち歩く風流人
晋作はいつでも楽しむために、自前の三味線を持ち歩いていました。

また、「三千世界のからすを殺し君と朝寝がしてみたい」「何をくよくよ川ばた柳水の流れを見てくらす」など、晋作が作ったといわれる、都々逸(どどいつ)のようなものがたくさん残っています。
この頃三味線に合わせて唄われていた唄が、晋作の作として後世に伝わったのではないかとも考えられますが、そのぐらい晋作は風流人だったということですね。
まとめ
幕末の志士・高杉晋作の生涯や功績、人柄がわかるエピソードのいくつかをご紹介しました。
抜きんでた行動力で歴史を動かした高杉晋作。
まるで鬼のようなイメージがありましたが、意外に風流で家族への心配りを忘れない人物だったのですね。
もっと高杉晋作について知りたいという方には、こちらもどうぞ^^
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