幕末の長州藩といえば、吉田松陰や高杉晋作など多くの志士たちが、倒幕に向けて活躍したことが知られていますね。

彼らが活躍できるように、長州藩の基盤をがっちりと築いた人物がいます。

それが、村田清風です。

村田清風がいなければ幕末の長州藩はなかったといわれているほど、財政・軍備・教育面において大きな改革を成し遂げました。

この記事では、村田清風が何をしたのか、改革内容や名言、吉田松陰との関係などについてご紹介します。

村田清風は何をした人?その生涯

村田清風は長州藩の財政改革を行った人です。

天明3年(1783年)、萩藩士村田光賢の長男として三隅村(現在の長門市三隅)に生まれました。
清風も少年時代は地元の塾に通い、14歳の時に藩校明倫館に入学します。

村田家は代々、藩の財政に関わるお家柄。
清風も5代の藩主に仕え、50年近い士官生活を送りました。

借金だらけだった長州藩

清風が生きた頃の長州藩の財政は赤字
もともと所領を減らされてスタートだったので、豊かな藩ではありませんでした。

つぶた
つぶた
長州藩は天保年間までに30回近く財政改革を行ってきたんだって

清風が藩の政治に関わった天保年間はとくに自然災害が多く、一揆も相次ぎました。

藩主の豪遊もあって、藩の金庫が底をつくほど財政はひっ迫。
当時長州藩の借金は8万貫。
8万貫は藩の年収の22倍!そんなにも借金が膨れ上がっていたとは・・・驚きです!

56歳で家老顧問役に大抜擢!

こうした危機的状況の中、藩主敬親が13代藩主となります
家臣から何を言われても「そうせい」と答え、「そうせい」候と呼ばれた藩主です。

天保9年(1838年)、敬親は清風を家老顧問役に大抜擢!
清風は天保の大改革を推し進めることになります。なんと56歳でのことでした。

清風はそれまで、財政に関わる役職に就いては役人の反発を受けて辞職、また役職については辞職を繰り返していました。
財政改革に着手するも、反対に遭い断念せざるを得なかったのです。

藩主毛利敬親とともに藩政改革を実行

天保の改革の実行にあたり、もちろん役人からは猛反発。
これまでのように清風は辞職を考えますが、今度は藩主敬親が辞めることを許しません。

敬親は清風を後押しするように、天保11年、御前会議で藩が大赤字で大変な状況であることを公表します。
財政状況の公表は当時では大英断だったそうです。
藩の財政の実態を知って、役人たちも大慌て。
これはどうにかせねば大変だ!と役人たちの間に危機感と一体感が広がっていきました。

敬親のおかげで清風は七ヶ条からなる意見書を公表し、改革を実行していくのです。

62歳で退陣・藩政改革に一生を捧げる

しかし、徹底した債務整理を行ったことで藩の御用商人たち、武士たちから大反撃を受け、弘化元年(1844年)に退陣します。
この時清風、62歳でした。

その後、ペリーの来航で世間は騒然。
各藩は沿岸の警備や軍備の増強が必要になり、財政的にも危機が迫ります。

この時、隠居の清風をふたたび起用しようとしますが、安政元年(1854年)、中風で息を引き取ります。藩の財政改革に一生をささげた73年の生涯でした。

村田清風はどんな改革をした?

財政改革

長州藩の特産品で収入アップ

財政を立て直すには、まずは出ていくもの(支出)を減らすことからですね。

清風は武士の給料を減らし、倹約を徹底します。
これは藩主やその家族の生活費節約に始まり、女性の衣服にも制限を設けました。
もちろん、他にも支出を減らす政策を行っています。

入ってくるもの(収入)においては、産業を発展させて積極的な収入増を図りました。
米、塩、紙、蝋の「防長四白(ぼうちょうよんぱく)」の生産を増やし、地元産業の活性化に努めます。

他にも農水産物の加工品を作ることを奨励して収入アップを目指しました。

つぶた
つぶた
今の地元の特産品のほとんどは、江戸時代に作られたものだって言われているよ
なんたん
なんたん
当時大坂で長州の加工品は大人気だったんだって

越荷方にテコ入れ

とくに収益アップに効果があったのは、越荷方(こしにがた)事業へのテコ入れ。

清風以前の改革で長州藩は港町を整備し、売りさばきや金融、倉庫業を行って収益アップしましたが、今回はさらに規模を拡大。

委託販売を始めて倉庫の貸し出し料と手数料などで儲け、その余剰金は藩の財政に潤いを与えました。

おかげで財政も好転し始め、8万貫の借金もどうにかなる見通しがつき始めたのでした。

富国強兵策

清風が行った改革は、財政面のみにとどまりませんでした。
富国強兵策に力を入れ、越荷方による事業収益は藩の軍備拡張に充てられたのです。

弓矢から鉄砲への戦術改革や、有名なのは天保4年(1843年)に阿武郡羽賀台で行った大演習。
1万四千人の軍勢を動員して大調練を行いました。

長い平和な時代が続いていましたが、清風は外国船が日本近海にやってくることに危機感を持っていました。
時代の先を見る目を持っていたのです。

清風による財政改善と軍備増強は、幕末に向けて長州藩の土台を築いたと断言できます。

50代半ばでこの活躍。
それまで志半ばで改革を諦めてきた清風でしたが、藩主敬親と出会うことで遅咲きの大活躍につながったのです。

教育による人づくり政策

清風は人材の育成にも力を注いだことで知られています。
家柄に関係なく学校で勉強できるように、学校教育を重視しました。

幕末、長州から多くの志士たちが活躍したのは、清風の人材育成、教育の基礎があったからこそと言えるでしょう。

藩主敬親は嘉永2年(1849年)、これまでの施設では不十分とのことで、藩校明倫館を新しく建て直します。
これはもちろん、清風の進言でした!

その広さは500アール、今の明倫小学校がすっぽり入るほどだったとか。
孔子を祭った聖廟、講堂、寮、武術場や水練用の池、医学所などが作られ、大学・小学の制度も作られました。
まさに総合大学だったそうです。

吉田松陰にも影響を与える

幕末の志士、吉田松陰は天保元年(1830年)に萩に生まれています。
清風は当時48歳。
松陰の少年時代はちょうど清風の改革の時期と重なります。

松陰は清風の影響を大きく受け、大先輩の清風を師として敬っていました。

清風がこの世を去った時、松陰は野山獄に入れられていました。
松陰は悲しみ、「皇天何の心ぞ我が長防に幸いせざる 吾が君のはんするところ一朝にして忽ち喪亡す」という追悼の詩を残しています。

亡くなる前、健康を害した清風は地元三隅で私塾を開き、死ぬまで後進の育成に力を注ぎました。
松陰が開いた松下村塾も、教育者として多くの志士たちを輩出したことは有名です。

改革の思想や次世代の人材を育てる思想が、清風から松陰に、そして幕末の志士へと引き継がれ、日本を大きく変えていったのです。

村田清風の名言は?

「わが藩に8万5千貫の大敵あり」

清風が藩主敬親に命ぜられて財政改革に臨んだ際、藩の負債はおよそ8万貫。
その負債を大敵と呼び、徹底した改革を行いました。

「実技のやれない者は理論を言うな
理論に通ぜぬ者は実技を論ずるな」

これも清風の言葉と言われています。

「敷島の大和心を人問はば 蒙古の使ひ切りし時宗」

属国になるよう迫ってきた元の使者を切り捨てた、鎌倉幕府の執権・北条時宗こそ大和心を象徴した人物だとしています。
かなりの攘夷論者だったんですね。
藩の軍備増強策もこの言葉を読むと納得がいきます・・・。

まとめ

今回は村田清風についてご紹介しました。

日本の歴史の中で、吉田松陰や高杉晋作らは有名ですが、村田清風はさらっと流されてあまり知られていないのではないかと思います。
わたしもほんとにどんなことをした人物か、ほとんど知りませんでした。

しかしその功績を考えると、村田清風がいなかったら、幕末の長州藩はなかったのではないかと思うほどです。

この記事をきっかけに、少しでも多くの方に、村田清風という人物に関心を持っていただけると幸いです。

(イラストはフリー素材サイトイラストACより、ニッキーさんのものをお借りしました。
また村田清風については『歴史に学ぶ地域再生 中国地域の経世家たち』 社団法人中国地方総合研究センター編 吉備人出版、『山口県の歴史』 明治図書、別冊太陽『幕末・維新 長州傑士列伝』を参考にしました)