1977年の大河ドラマ『花神』に取り上げられ、靖国神社に銅像があることでも知られる大村益次郎。
幕末から明治にかけて、医師、蘭学者、軍師として活躍した、長州藩出身の人物です。

つぶた
つぶた
おでこがすごく広いことで有名な人物だよね!
でも、何をしたのかはよく知らないな…
彼は「日本陸軍の父」と呼ばれた人物で、維新の十傑の一人でもあるのよ!
何をした人でどんな人柄だったのか、もっと知りたいわね
なんたん
なんたん

そこでこの記事では、大村益次郎が何をした人なのか、その生涯を辿り、靖国神社に銅像が建立された経緯もご紹介します。

大村益次郎、その生涯は

イラストACより)

長州藩に町医者の子として誕生

大村益次郎は、1825年(文政8年)、現在の山口市鋳銭司(すぜんじ)の町医者の長男として誕生しました。

防府の梅田幽斎、豊後国日田(現在の大分県日田市)の咸宜園(かんぎえん)で蘭学や算術、漢籍を学んだ後、大坂に出て緒方洪庵の適塾へ入塾。適塾の塾頭(塾生の責任者)にまでなりました。

つぶた
つぶた
適塾ってあの福沢諭吉も学んでいた蘭学の塾だね!
益次郎はとても勉強熱心で、ものすごく知識が豊富だったんだって

町医者としては不評、蘭学者として宇和島藩へ

1850年(嘉永3年)、郷里に戻って町医者として開業したものの、ぶっきらぼうな人柄に加え、治療もあまり上手いとはいえず、評判はよくありませんでした…。
博学すぎて、簡単な治療では物足りなかったのかもしれませんね。

なんたん
なんたん
知識はあって頭がよくても、町医者としての素質はなかったみたいね
「今日は寒いですね」と言われたら「冬は寒いのが当たり前だ」と返していたそうだよ。
それは患者さんも来なくなるだろうね…
つぶた
つぶた

このまま流行らない町医者として終わるかと思われた益次郎でしたが、1853年(嘉永6年)、蘭学の知識を買われ、宇和島藩(現在の愛媛県宇和島)へ出仕。蘭学の講義や砲台の建築に携ります。
また長崎にも出向き、軍艦製造の研究を行いました。

宇和島藩で益次郎はその才能を発揮。
藩主からも一目置かれる存在となっていったのです。

兵学者として郷里長州藩で活躍

1856年(安政3年)、益次郎は宇和島藩主に従って江戸に出向くと、蘭学や医学、兵学を教える私塾「鳩居堂」を開塾。

また、幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ/幕府直轄の洋学研究機関)の教授になり、兵学や語学の講義、翻訳を行いました。
その内容は、当時最高水準の素晴らしさだったそうで、幕府から褒章を受けています。

益次郎の才能は広く知れ渡ることとなり、1860年(万延元年)、長州藩に請われて、今度は兵学のプロとして長州藩士に取り立てられます。

つぶた
つぶた
蘭学者から兵学者になったんだね…多才だなあ。
でも、やっと長州藩に戻ったんだね!

長州藩では藩校明倫館で兵学の講義を行い、製鉄所建設に関わるなど、軍事の仕事に邁進。
高杉晋作が創設した、奇兵隊の指導も行ったそうです!

幕府による第2次長州征討では、藩の指導権を握り、従来の軍を再編して戦術を徹底的に訓練。
無駄を省いて相手の自滅を誘う合理的な攻撃で、幕府軍をつぎつぎと撃破。藩を勝利に導きます。

なんたん
なんたん
「その才知、鬼の如し」と言われたほどでした。
まさに軍事の天才だったんですね!

日本の近代軍制を創始!!

大政奉還後は、近代国軍の基礎づくりを開始。
明治新政府軍の総司令官として指揮をとります。

なかでも、西郷隆盛や勝海舟らが抑えきれなかった旧幕府残党による彰義隊を、わずか一日で鎮圧(上野戦争)したことにより、益次郎の名は広く知られるようになりました。

つぶた
つぶた
頭が良すぎるキレものすぎて、反感を買うことも多かったようだよ
戊辰戦争(旧幕府残党との戦争)での功績により新政府の幹部になり、その後、兵部大輔(軍制行政機関の次官)に就任。
当時の兵部大臣が名目だけの人物だったため、事実上益次郎が、近代日本の軍制を作り上げていきました。
なんたん
なんたん
フランス式の軍制を導入し、軍隊の養成機関を作りました。
国民皆兵の思想から徴兵制も考えていたそうです

志半ばで刺客に襲われる

1869年(明治2年)、益次郎は京都出張の折、会食中に刺客に襲われ、瀕死の重傷を負います。

どうにか一命を取り留めましたが、傷が悪化し敗血症に。
左足を切断する大手術を受けますが、時すでに遅く手遅れとなり、45歳で亡くなりました。

益次郎の志は、のちに総理大臣になる山縣有朋が引き継ぎ、近代軍制を形にしていきました。

つぶた
つぶた
襲撃の理由は、益次郎による兵制を中心とした急進的な改革に対する反感と言われています
益次郎のお墓は、郷里の山口市鋳銭司にあり、妻の琴子とともに眠っています。
また、死の3年後、お墓の近くに益次郎をご祭神とする、大村神社が完成しました。

靖国神社に大村益次郎の銅像!誕生の経緯は

photoACより)

大村益次郎といえば、靖国神社にある大きな銅像がよく知られています。

郷里に大村神社が建立されたのに、どうして靖国神社に益次郎の銅像が建てられたのでしょうか。
それは、彼が靖国神社の創建に関わっていたから、といわれています。

益次郎は、戊辰戦争の戦没者を弔うために、靖国神社の前身である招魂社の創建を提案していました。
また、招魂社の鎮座地の選定にも関わり、視察を行って九段坂上に建立することを決めていましたが、招魂社が創建された直後の1869年(明治2年)、命を落とします。

死後13年が経過した、1882年(明治15年)、「日本陸軍の父」大村益次郎の銅像建立の話が持ち上がります。
西洋を視察した人々から、日本にも銅像を作ろうという話が出始めた頃だったそうです。

つぶた
つぶた
益次郎の銅像は、日本最初の西洋式銅像だったんだね!

建設場所が靖国神社に決定したものの、銅像完成までの道のりは、容易ではありませんでした。
なにしろ、生前の益次郎の写真がなかったのです…。

そこで益次郎に面識のあった人物が絵を描き、その絵を見てイタリア人の銅版画家キヨソーネが肖像画を作成。

なんたん
なんたん
その絵が、おでこの広さが特徴的な、あの益次郎の絵です
銅像の制作は、鋳造技術だけでなく、原料や技術の面でも難航し、除幕式はたびたび延期になったのだとか。

そして、発起から足かけ12年を経た、1893年(明治26年)、ようやく日本最初の西洋式銅像である大村益次郎像が完成したのです
たちまち東京の新名所になったそうですよ。

(参照:靖国神社公式サイト山口県魅力発信サイトきらりんく内、おもしろ山口学)

まとめ

大村益次郎の生涯と、死後、靖国神社に銅像が建立された経緯についてご紹介しました。

医者から蘭学者、兵学者、そして「日本陸軍の父」といわれるまでになった益次郎。
大河ドラマ『花神』でも取り上げられましたが、地元山口県では、あまり人気がないかもしれませんね…。

ぶっきらぼうな性格ではありましたが、じつは親切でとてもまじめ。日本の将来を常に考えていた益次郎。
もっと多くの方に彼が何をした人物なのかを、知っていただきたいですね。

郷里の山口市鋳銭司には、大村神社や墓所、益次郎の生涯をわかりやすく展示した鋳銭司資料館などがあります。
山口市においでの際は、益次郎の足跡を辿りに、お立ち寄りくださいませ。