大内氏は約200年間、山口に拠点を置き、栄華を極めたお殿様です。
最も大きい時は、関門海峡を越えて北九州から、現在の中国地方の大半をその勢力下に置いたほど。まさに「西国一の大名」でした。
瑠璃光寺五重塔に山口大神宮、一の坂川、大殿大路に竪小路…。歴史と風情あふれる山口市のまち並みには、かつて山口で栄華を極めた大内氏のまちづくりの跡が、今もあちこちに残されています。
山口市に脈々と息づく大内氏の文化。
大内氏がいなかったら、西の京とよばれることもなく、多くの名所・史跡もなかったと思うと、山口は大内氏抜きに語ることができませんね。
とはいえ山口県民でも、大内氏の歴代当主や滅亡の理由など、よく知らないという方もいらっしゃるかもしれません。
大内氏とは
ルーツは朝鮮半島⁉
西国一の大名・大内氏のはじまりは、海の向こう、朝鮮半島の百済国聖明王の第3王子・琳聖太子!
推古天皇の頃、琳聖太子が周防国(防府)に上陸し、聖徳太子から大内の地(山口)と多々良の姓を賜ったと伝えられています。
本拠地を山口に
その後、平安時代に「大内」と名乗るようになり、周防の国衙(防府)を拠点に、権力を盤石なものにしていきました。
山口に移ったのは南北朝時代。第24代弘世(ひろよ)の時代です。
大内弘世は京を模したまちづくりを始め、その後の歴代当主たちも、京を模したまちづくりを進めました。
こうして、大内文化が花開き、山口は西の京といわれることとなったのです。
大内氏の歴史、歴代当主
ここからは、山口に拠点を移した大内氏の歴代当主の功績を、かんたんにご紹介します。
大内氏繁栄の歴史、文化、そして滅亡までをみていきましょう。
24代 弘世(ひろよ)
周防の守護になり、山口に拠点を移した弘世。
宇部を拠点としていた厚東氏を倒し、周防・長門国を二カ国を勢力下におさめました。
その後、九州や石見国(島根県西部)、安芸国(広島県西部)にも進出。どんどん勢力を拡大していきました。
25代 義弘(よしひろ)
弘世の嫡男・義弘は、山名氏が室町幕府に対して起こした反乱で活躍。
また、南北朝の統一に貢献。
その活躍から将軍・足利義満にすっかり気に入られ、和泉・紀伊国の守護に任じられ、周防・長門・豊前・石見国とあわせて、6つの国に勢力を拡大しました。
さらに朝鮮半島との交易を行い、財力も増。大内氏の最盛期をもたらします。
しかし、義弘の勢力を危険視した義満と対立。
義弘は堺で挙兵しました(応永の乱)が、戦死してしまいました…。
26代 盛見(もりみ、もりあきら)
兄弟間の争いの結果、勝利して家督を継いだ義弘の弟・盛見。
義弘の死後、大内氏の両国の大半は将軍・義満に取り上げられてしまいましたが、義満が亡くなると室町幕府と和解。
周防・長門の守護に任じられ、豊前国も取り戻します。
また、幕府の政治にもかかわるほど幕府内でも重要な人物となっていきました。
27代 持世(もちよ)
盛見の死後、義弘の子である持盛と持世の兄弟間で家督争いが起こりますが、幕府の支援を受けた持世が家督を継ぎます。
幕府の後ろ盾を得て、北部九州を平定。勢力を延ばしました。
しかし、将軍義政の求めに応じて上洛した際、将軍への謀反(嘉吉の乱)に巻き込まれ、瀕死の重傷を負い、一か月後に亡くなりました。
28代 教弘(のりひろ)
持世の死後、兄弟間の家督争いに勝利した、盛見の子・教弘が当主に。
幕府と明(中国)との貿易(遣明船)への一隻の経営権を獲得。次第に日明貿易を独占し、財力を高めていきました。
29代 政弘(まさひろ)
1467年、守護大名の勢力が東西真っ二つに分かれて争った、11年にわたる応仁の乱が勃発します。
政弘は山名氏の西軍に参戦し、のちに西軍の総大将として活躍。幕府にも影響を与える守護大名としての地位を保持し続けました。
30代・義興(よしおき)
義興(よしおき)は北九州、中国地方の覇権を確立。勢力を確固たるものにしました。
応仁の乱で京を追われ、放浪生活を送っていた将軍・義植(よしたね)をかくまい、将軍職に復帰させたことで、山城国の守護も任せられ、京で将軍を支えていくことになります。
朝廷や幕府に気に入られた義興は、山口に帰ろうとするたびに引き止められ、ついには公卿(国政を担う最高の職位)にまで昇りつめます!
しかし、長く山口を留守にしている間、尼子氏や安芸武田氏が台頭。義興、なんと11年ぶりに山口に帰国し、新興勢力と戦いました。
31代 義隆(よしたか)
大内氏の勢力範囲は義隆の代で歴代最大に! また朝廷の評価が高く、義隆も公卿の仲間入りを果たしました。
しかし、尼子氏の本拠地・出雲へ遠征するも大敗を喫し、愛を注いでいた養嗣子の晴持(はるもち)を敗走時に失う悲劇に見舞われます。
この敗戦から義隆は政務を放棄し、文芸や遊びに傾倒するようになったといわれています。
その後、重臣・陶晴賢(すえはるたか)らによる謀反が勃発。海路での脱出を試みますが暴風雨に阻まれ、長門の大寧寺で自害しました(大寧寺の変)。
大内氏はなぜ滅亡した?
勢力範囲を歴代最大にまでした義隆。なのになぜ、謀反が起きてしまったのでしょうか。
朝廷との関係が深かった大内氏。義隆以前にも、京から多くの公家や官人が山口にやってきていました。
彼らは政治にもかかわり、影響を与えていたと思われます。それをよく思わなかった家臣たちも多かったことでしょう。
また、尼子氏との戦いの敗退以降、戦いを主導した重臣・陶氏ら武功派を政権から遠ざけ、文治派といわれる相良武任(さがらたけとう)らに重きを置き、政務を任せるようになっていきます。
陶氏にしてみれば、「あんなに強かった殿様が、文芸にうつつをぬかして、なんてこった。藩政の乱れもすべて文治派のせいだ」と憤懣やる方なかったのではないでしょうか。
こうして陶晴賢は、かつて義隆の猶子になったことがある大内義長(当時は晴英)を担ぎ上げ、謀反は実行されます。
義隆は自害。享年45歳でした。
息子の義尊(よしたか)は逃げたものの、その日のうちに捕らえられ殺害されています。この時まだ7歳。なんとも不憫ですね。
まとめ
大内氏のルーツや歴代当主の功績、滅亡の理由などをまとめました。
山口を拠点にした大名が、京の朝廷や幕府で高い地位を得て、大きな勢力を誇っていたとは、今となっては信じられないような気持ちですね。
ですが、山口のまち並みには実際に、大内文化が色濃く残る建物や文化が数多く残されています。
桜や紅葉の時期などに、山口のまち並みを歩きながら、かつての大内氏の栄華を感じてみてはいかがでしょうか。
※記事の内容は、『西国一の御館様 大内氏がわかる本 入門編』(山口市)、大内文化まちづくりHP、西の京やまぐち公式サイトを参考にしました。