錦帯橋の美しい岩国で生まれ育った作家、宇野千代。
若い頃から有名な文士や画家と数多くの恋愛、結婚を経験。
その経験を自身の作品に昇華させ、「おはん」「色ざんげ」など、後世にも読み継がれる名作を生み出しました。
また作家としてだけでなく、着物のデザインや雑誌の編集者、実業家としての顔も持つ多彩な女性で、その精力的な生き方は多くの人の励みになるのではないでしょうか。
この記事では、宇野千代の生まれ育った環境や現在の生家、若い頃の恋愛や結婚遍歴などについてご紹介します。
宇野千代とは
宇野千代は1897年(明治30年)、現在の岩国市川西村に長女として誕生しました。
1921年(大正10年)、応募した懸賞小説が一等に当選。
これをきっかけに作家として生きることを決意し、上京します。
数々の作品を生み出し、代表作『おはん』は、野間文芸賞、女流文学者賞を受賞。
『おはん』は何度も映像化、舞台化されました。
また1936年(昭和11年)には、ファッション雑誌『スタイル』を創刊。
さらには着物のデザインも行い、現在に至るまで、そのデザインは多くの人たちの人気を得ています。
私生活では、当時の流行作家・尾崎士郎や画家・東郷青児らとの結婚、恋愛を経験。
ともに雑誌『スタイル』に携わった作家・北原武夫と4度目の結婚をしますが、1964年(昭和39年)に離婚。
その後も随筆、デザインなど精力的に活動し、1996年(平成8年)、急性肺炎のため98歳で亡くなりました。
育った環境と生家
千代は、けして幸福とはいえない環境で育ちました。
のちに千代自身も、著書の中でそのように書いています。
千代の生母は、2歳の時に病死。
翌年、父は20歳年下の娘と再婚します。
またたく間に4人の弟妹たちが生まれ、千代は長女として弟妹たちを背中に負ぶってお守りをし続けました。
「私の小さい背中は、おしっこの乾く間がなかった」「小さいお母さんになったような心持」でいたと記しています(『作家の自伝32宇野千代「わたしの青春日記」』日本図書センターより)。
千代の父は、「半生を家というものを持たず、諸々方々を放浪して、宝塔無頼な生活をしてきた四十男」(『生きて行く私』角川文庫より)。バルザックやドストエフスキーの小説にしか出てこない狂人のようだったとも、書かれています。
そんな父は、日頃何をして働いていたのかもよくわからず、一家は貧しい生活を送っていました。
傍から見ると、あまり幸福ではない幼少期を過ごした千代。
しかし著書には、他人から悲惨に見えようが自分はそうは思っていなかった、と記しています。
厳格な父は、57歳で病死。
父の死は、千代をはじめ、家族に解放感を与えました。
現在、生まれ育った家は千代自身により修理復元され、一般にも開放されています。
4度の結婚と恋愛
最初の結婚とひどい失恋
千代は13歳の時、従兄(生母の姉の息子)の忠一と最初の結婚をします。
好きという感情はなく、父親に命令されたような形での結婚で、結局10日ほどで実家に帰るのですが・・・。
実家に戻って間もなく、父が病死します。
千代16歳の頃でした。
女学校を卒業した千代は小学校の代用教員になり、同僚の教員と恋仲になります。
ふたりの間は周囲に知れ渡り、学校から免職を言い渡された千代は、恩師を頼って京城(現在のソウル)へ渡ります。
ところが、相手からの「もう手紙をよこさないでくれ」との手紙に不安を覚えた千代は、すぐさま岩国の相手の元へ。
相手の男は千代を見るなり突き飛ばし、ぴしゃりと雨戸を閉めてしまいます。
千代の初恋は、ひどい失恋に終わりました。
しかし千代は失恋を受け入れ、もう一度雨戸を叩くことはしませんでした。
失恋の翌日、千代はもう次の仕事に取りかかっていたというから、なんと強い人でしょう。
「駆け出してしまって転んだなら、何かを掴んで立ち上がるだけ」という、千代の人生への姿勢がうかがえます。
2度目の結婚と作家デビュー
千代は、最初の結婚をした従兄の弟・藤村忠と結婚。
学生だった藤村とともに東京へ出ます。
その後、藤村の就職で札幌に移り住んだ千代は、「時事新報」の懸賞小説に『脂粉の顔』を応募。
一等に当選し、多額の賞金を得ます。
この時千代、24歳でした。
自分には文才があると思い込んだ千代は、すぐに次の作品を書き、東京でウエイトレスをした時に知り合った、雑誌「中央公論」の編集長・滝田樗陰(たきたちょいん)に送ります。
しかし、待てど暮らせど何の音沙汰もなし。
いてもたってもいられなくなった千代は、「2日とかからず戻って来る」と藤村に言い残すと東京へ旅立つのです。
尾崎士郎と3度目の結婚、あらたな出会い
自分が書いた小説が誌面に載っていることを知り、その場で多額の賞金を得た千代。
大金に浮かれてそのまま郷里の岩国へ行き、継母に稿料を渡します。
札幌に戻る途中、中央公論社に立ち寄ったところ、作家・尾崎士郎(おざきしろう)に出会い、惹かれあった二人はその日から一緒に暮らし始めたのです。
藤村と正式に離婚した2年後、尾崎と結婚しますが、間もなく尾崎は17歳のウエイトレスと親しくなり、家を出てしまいます。
千代はこの別れに苦悩し放心状態になりますが、この経験が千代を作家として成熟させていきました。
そして取材で出会った画家・東郷青児(とうごうせいじ)に惹かれ、一緒に暮らすようになるのです。
千代が出会った時の東郷青児は、恋人と心中を図ったものの、未遂に終わって間もない頃でした。
しかし千代はこの間、東郷から聞いた心中に至った恋物語を、自身の代表作『色ざんげ』にまとめたのです。
4度目の結婚と雑誌「スタイル」
1939年(昭和14年)、10歳年下の作家・北原武夫(きたはらたけお)と4度目の結婚をします。
この時千代は42歳。
千代が北原に惹かれたのですが、「年齢のことなど、一度として考えたことはなかった」「愛している、と自分自身が思い込んでいるのに急だった」と書いています(『生きて行く私』角川文庫)。
ふたりは日本初のファッション雑誌「スタイル」を創刊。
人気雑誌になりますが、脱税のため会社は多額の負債を抱えて倒産。
返済のため、千代は着物のデザイナーとして活動し、北原は多くの作品を書きまくります。
1964年(昭和39年)、負債の完済と同時に、愛人がいた北原の申し出により離婚。
25年の結婚生活に終止符を打ちます。
この時も千代は抗議もせず、北原の申し出に従い届に署名。「声を立てずに泣いた」そうです。
北原と離婚後、千代は1970年(昭和45年)に発表した『幸福』で女流文学賞、1982年(昭和57年)には菊池寛賞を受賞。
自伝『生きて行く私』がベストセラーになり、1990年(平成2年)には、文化功労者に選出されました。
まとめ
宇野千代の交友関係、エピソードは、ご自身も多くの著書に書かれているように、ものすごくたくさんあります。
幼少期からあまり幸福といえない環境で育ち、恋愛にのめりこんでは相手に尽くし、幾多の失恋、結婚、離婚を経験した千代ですが、多くは相手からの別れの申し出に文句をいうことなく、黙って受け入れてきました。
千代は著書で、「亡くなった父の命令はどんなに不条理なことであっても唯々諾々として服従した、あの習慣が残っていた」「いつのときも、抗うことなく、自分の方から身を引いた」と書いています(『生きて行く私』角川文庫)。
しかし、ただ相手の言いなりになるのではなく、その経験から多くの自伝的な作品を生み出し、作家として成熟した姿はほんとうに力強いものがあります。
幼少期の境遇についても、「子供の頃の私は、決して自分は不幸な子供だとは思っていなかった」「不幸に対しては鈍感であり、幸福に対しては感じ易い、そういう感じ方で幸福を知っていたと思う」と記しています(『作家の自伝32宇野千代「わたしの青春日記」』日本図書センター)。
うまくいかない人生の中にも、幸せのかけらを上手に見つけ、目の前のことに全力で生き抜いた98年の人生。
多くの人に感銘を与えた宇野千代の人生は、生き方で迷う人の背中を押してくれるのではないでしょうか。
ぜひ、宇野千代さんの自伝も読んでみてください。
宇野千代の残した名言はこちらでご紹介しています。
数多くの恋愛や結婚、離婚を繰り返し、仕事では多額の負債を抱えるなど、波乱万丈の人生を送った作家、宇野千代。 酸いも甘いも、さまざまな経験を経てきたからこそ生み出せた、悩める人たちの背中を押せる前向きな言葉がたくさん残って …