幕末から明治初期にかけて活躍した長州藩士・木戸孝允(桂小五郎)。
どんな功績を残した人物かご存じでしょうか。
功績をあまり知られていないのがちょっと残念ですね。
そこでこの記事では、木戸孝允(桂小五郎)は何をした人なのか、その功績や、人柄がわかるエピソードなどをまとめてみました。
※記事内のイラスト、写真は、フリー素材サイト「写真AC」「イラストAC」のものを使用しています。
木戸孝允(桂小五郎)は何をした?
木戸孝允(きどたかよし)は、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新三傑」に数えられる人物です。幕末期には、桂小五郎(かつらこごろう)の名前で活動しました。
天保4年(1833年)、長州藩の藩医の子として生まれ、藩校明倫館にて学びます。
幕末、高杉晋作らとともに長州藩の指導権を握って活躍。薩長同盟を締結し、倒幕を実現しました。
明治新政府では重要な地位に就き、日本の近代化、新しい国づくりを目指して時代をリードしますが、明治10年(1877年)、病のため志半ばで亡くなりました。
- 尊王攘夷派のリーダーとして活動(幕末)
- 薩長同盟締結(幕末/1866年1月)
- 明治新政府にて版籍奉還(1869年)、廃藩置県(1871年)を断行
木戸孝允(桂小五郎)の生涯
長州藩の俊英、江戸へ!
木戸孝允(桂小五郎)は、藩医・和田昌景(わだしょうけい)の子として生まれました。
7歳の時、武士である桂家の養子になり、桂小五郎と名乗るようになります。
萩の藩校・明倫館(めいりんかん)で学んだ小五郎は、藩主から二度もほうびをもらうぐらい学業優秀な少年でした。
もともとは武士ではないという負い目から、人の何倍も努力を重ねたといわれています。
嘉永5年(1852年)、人材育成に熱心だった長州藩では、江戸の剣客・斎藤新太郎(さいとうしんたろう)の道場に剣術の遊学生を送ることにしました。
かねてから江戸遊学を希望していた小五郎は、江戸へ出発。
熱意と根性で日々熱心に剣術の腕を磨き、道場では一年で塾頭にのぼり詰めました。空いた時間には、多くの書物を読んで学びを深めたそうです。
嘉永6年(1853年)、ペリーの黒船艦隊が日本に来航します。
江戸にいた小五郎は、まさにリアルタイムで黒船で大混乱の日本を体験。
これはのちの小五郎にとって、大きな意味を持つことになったのです。
西洋の技術や砲術のレベルの高さを知った小五郎は、帰藩命令が出ても江戸に残り、西洋兵学や砲術、造船術や英語を学びます。
すべて、日本を外国から守ることを考えてのことでした。
潜伏生活から長州藩のリーダーに
当時の長州藩は、天皇の御所がある京都でとても強い権力を持っていました。
文久3年(1863年)5月10日、藩の過激派が攘夷を決行。下関海峡で外国船砲撃事件を起こします。
攘夷成功を喜んだのもつかの間、翌月には外国船から猛烈な反撃を受け、長州軍は壊滅的な被害を受けてしまったのです。
長州藩のあまりにも急進的な動きを心配した天皇は、薩摩藩と会津藩に、京都から長州を追い出すよう指示。
両藩によるクーデターで、長州藩は京都から追われてしまいました(八月十八日の政変)。
さらには、急進派が天皇の御所に砲を放ったこと(禁門の変)で、長州藩は朝敵(朝廷の敵)とみなされ、完全に京都での力を失い孤立してしまいます。
しかし、新選組(幕府の警察のような組織)の活動が活発になると、京都を脱出。
但馬地方(兵庫県北部)の出石(いずし)や城崎温泉などを転々として潜伏生活を送ります。
この頃、長州藩の政局は大混乱。
幕府から討伐令を出された藩は、幕府に従う姿勢を見せるために、3人の家老を切腹させます。
このような事態を見かねた高杉晋作は、元治元年(1865年)12月、下関の功山寺にて挙兵。
挙兵を成功させ藩内の実権を握ると、晋作は長州藩のリーダーとして小五郎を迎え入れます。
潜伏生活は終わりを告げ、小五郎は長州藩政の第一線に復帰したのです。
長州藩の代表として「薩長同盟」締結!
慶応5年(1865年)9月、小五郎は藩主の命により、名前を「木戸孝允」に改めます。
小五郎は幕府に目をつけられていたため、追及をかわすために別人になる必要があったのです。
薩摩藩といえば、長州藩が朝敵になるきっかけ(八月十八日の政変など)を作り、ことどとく長州藩と対立してきた藩。
薩摩と長州をくっつけようだなんて、誰も思わなかったことでしょう。
しかし坂本龍馬は、薩摩と長州が同盟を結ぶことで幕府を倒せる、と考えたのです。
木戸は、長州藩だけで幕府を倒すのは難しい、思いを同じくする他藩と協力して倒幕を実現したいと考えていました。
龍馬から話を受け、木戸も薩摩藩と手を組むことを考え始めます。
慶応2年(1866年)1月、会合の場が持たれ、同盟が結ばれました。
木戸が長州藩代表となって取り決めた薩長同盟は、江戸幕府滅亡への大きな決め手となったのです。
明治新政府で版籍奉還、廃藩置県を推進
薩長同盟が結ばれた翌年、慶応3年(1867年)10月、将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返しました(大政奉還)。
12月には「王政復古の大号令」が出され、天皇を中心にした新しい政府を作ることが宣言されます。
木戸孝允は、薩摩の西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)、公卿の岩倉具視(いわくらともみ)らとともに明治新政府の中核を担うことになり、新政府の基本方針となる「五か条の御誓文」の作成にも参加しました。
また中央集権国家を作るために、明治2年(1869年)には版籍奉還(はんせきほうかん)、明治4年(1871年)には廃藩置県(はいはんちけん)を断行します。
版籍奉還では、藩主たちにその領土(版)と領民(籍)を天皇に返還させました。
続いて廃藩置県を行って「藩」を廃し、新政府が直接統括する「県」を設置。
かつての藩主たちは免職となり、武士階級は行き場を失ってしまったのです。
もちろん長州藩でも、木戸を裏切り者と非難する声は多かったの
その後、幕府が外国と結んだ不平等協約の撤廃、外国の視察のために「岩倉使節団」に同行します。
2年後に帰国しましたが、朝鮮出兵をめぐって西郷隆盛と対立。
西郷は新政府の職を辞し、薩摩の不平士族らとともに「西南戦争」を引き起こすのです。
西南戦争の最中、木戸は病に倒れ、45歳で亡くなりました。
木戸孝允(桂小五郎)の人柄がわかるエピソードを紹介
ご了承ください
吉田松陰と桂小五郎
藩校・明倫館では、松下村塾で有名な吉田松陰(よしだしょういん)に兵学を学んでいます。
この時、小五郎17歳、松陰20歳。
松陰は小五郎のことを「我の重んずるところなり」などと語り、同志のように信頼していたそうです。
しかし安政5年(1858年)、松陰が処刑されてしまいます。
小五郎は長州の仲間とともに松陰の遺体を幕府から引き取り、小塚原(現在の東京都荒川区)に埋葬しました。
剣を交えない剣客
幕末の長州藩士といえば、過激で激情的な行動のイメージがありますが、小五郎は彼らとは一線を画した活動を行っていました。
小五郎は慎重で、冷静に判断する性格。
直情的に武力に訴えるのではなく、藩を越えて交渉や情報収集を行うことで、尊王攘夷の理解者を増やそうとしました。
感情的にならず、冷静な判断力や交渉力をそなえた小五郎は、大久保利通や坂本龍馬がもっとも信頼した長州人だったそうですよ。
「逃げの小五郎」と呼ばれても
長州藩が力を失って朝敵になったあと、京都では攘夷志士たちへの取り締まりが厳しくなります。
しかし小五郎は藩に帰らず、京都で情報収集や他藩との連携交渉を続けていました。
尊王攘夷志士たちが一網打尽にされた「池田屋事件」の際には、早く着きすぎて一旦外に出ていたため、新選組の襲撃を逃れたといわれています。
京都では物乞いの姿になったり女装したりしながら、追っ手の目をくらませました。
このように、なかなか捕まらない小五郎は「逃げの小五郎」の異名をとることとなったのです。
新選組の追跡がさらに厳しくなると、小五郎は京都を脱出。
但馬地方(兵庫県北部)の出石(いずし)や城崎温泉などを転々として潜伏生活を送ります。
小五郎は8か月の間に、7か所も潜伏先を変えたそうです。
追跡の厳しさがうかがい知れますね…。
潜伏期間中、商人や薪割などに姿を変えていたそうですよ。
幾松との身分を越えた恋
京都で追われる身となった小五郎を幕府や新選組の追手からかくまい続け、情報収集の手助けをしたのが、芸者・幾松(いくまつ)です。
物乞い姿で隠れている小五郎に、幾松が握り飯を持って行ったりしていたそうですよ。
幾松も、長州藩士岡部富太郎の養女となり、木戸と結婚。木戸松子と名乗ります。
薩長同盟でこだわった長州藩のプライド
坂本龍馬の仲介で実現した薩長同盟ですが、じつはなかなか話が進展しなかったそうです。
会合の場を持ったものの、長州も薩摩も同盟の話を切り出しませんでした。
業を煮やした龍馬は、なぜ同盟を言い出さないのか、木戸に問い詰めます。
木戸は、長州藩が頭を下げれば、両藩は対等な関係になれないと考えていました。
「薩摩が本気でないならば、いずれ長州はおろか、薩摩も日本も滅びるだろう」と、強い信念を龍馬に語ったのです。
両藩の取り決めの最後は、長州藩の名誉が回復した暁には、ともに手を取りあって日本のために力を尽くそう、という内容で締めくくられていました。
木戸孝允(桂小五郎)の年表
木戸孝允(桂小五郎)の生涯を、ざっくりと年表にまとめました。
年 | 年齢 | 木戸(桂)の動き | 取り巻く情勢 |
---|---|---|---|
天保4年 (1833年) |
萩の長州藩医の家に生まれる | ||
天保11年 (1840年) |
8 | 桂家に養子に入り桂小五郎と名乗る | |
1852年 (嘉永5年) |
20 | 江戸に遊学 | |
1853年 (嘉永6年) |
21 | ペリーの黒船を目の当たりにし、西洋について学ぶ | ペリー来航 |
高杉晋作らと尊王攘夷の志士として活動 | 日米修好通商条約(1858年) 安政の大獄始まる(1858年) 吉田松陰処刑(1859年) |
||
1863年 (文久3年) |
31 | 京都に潜伏 | 長州藩攘夷決行 八月十八日の政変 |
1864年 (元治元年) |
32 | 但馬地方に潜伏 | 禁門の変で長州敗走 四カ国連合艦隊下関を砲撃 第一次長州征討 高杉晋作功山寺挙兵 |
1865年 (慶応元年) |
33 | 長州藩政に復帰 木戸孝允に改名 |
|
1866年 (慶応2年) |
34 | 京都で薩摩藩の西郷隆盛と薩長同盟を結ぶ | 第二次長州征討 |
1867年 (慶応3年) |
35 | 「五か条の御誓文」起草に関わる 幾松と結婚 |
大政奉還 江戸が「東京」になる(1868年) |
1869年 (明治2年) |
37 | 版籍奉還を行う | |
1871年 (明治4年) |
39 | 廃藩置県を進める 岩倉使節団の一員として欧米へ |
|
1877年 (明治10年) |
45 | 病のため亡くなる | 西南戦争勃発 |
まとめ
幕末から明治初期にかけて活躍した、木戸孝允(桂小五郎)をご紹介しました。
志は同じであれど、高杉晋作や久坂玄瑞、吉田松陰ら過激な志士たちとは、一線を画す考えを持った人物でした。
この記事で、志のために命を散らすのではなく、逃げ回ってでも命をもって志を成し遂げようとした、木戸孝允(桂小五郎)の執念の人生に関心を持っていただけると幸せます。
※記事の内容は、「小学館版学習まんが人物館 木戸孝允(桂小五郎)」「木戸孝允「勤王の志士」の本音と建て前/一坂太郎」を参考にしました。
木戸孝允(桂小五郎)の死因、晩年の様子や名言をまとめました。
⇒木戸孝允(桂小五郎)の死因は?最後の言葉や名言、晩年の様子も紹介