江戸時代の長州藩で松下村塾を主宰し、維新の志士の思想に影響を与えた吉田松陰。
幕末の教育者・思想家といわれ、今でも私たちの教訓となる言葉が「名言」として数多く紹介されています。

そんな松陰の本業は、実は長州藩の兵学者でした。
歴史の転機となる時代に生き、29歳の若さで亡くなるまで兵学者であり続けた吉田松陰について、どんな人物で、何をしたのか?その功績や死因、生涯についてご紹介します。

吉田松陰ってどんなひと?

吉田松陰の人物像

松陰は、身長160cmほどのやせ形。顔は面長の切れ目で、鼻筋が通ったいかにも学者といった風貌の持ち主でした。

学者といっても座学一辺倒の頭でっかちではなく、実学重視の行動派。本を読むだけでなく、情報を集める、実際に人に会って議論するなど、行動することを大切にして、人にもそのように説きました。

正義感が強く、「こう」と決めたら我が道を突き進む情熱家でもあったようです。

平等の精神をもち、誠実で実直。何事にも一生懸命な松陰は気さくな人柄もあり、出会った人々に親しまれ、慕われる人物でした。

吉田松陰の思想

松陰は、武士としての在り方や生き方を追究し続け、”藩を守る”という意識を強く持っていました。
これは、松陰が「山鹿流兵学」の師範だったことに関係します。

山鹿流兵学は兵学だけでなく、江戸時代の武士の教養や生活規範となる学問であり、松陰は幼い頃からその英才教育を受けていたのです。

また、公のために尽くすこと、誠実であることをとても大事にしていました。
「精一杯の誠意で相手に接すれば、それで心をうごかされない人はいない」
という孟子の「至誠」を座右の銘として、その生き方を貫きました。

吉田松陰の功績は?

松陰が主宰した松下村塾からは、近代日本の立役者となった人物が多数輩出されました。
門下生には、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文など、日本の歴史に名を残した人物が名を連ねています。
彼らが討幕や維新でみせた行動は、松陰の思想や至誠の生き方に強く影響されたものでした。

また、膨大な読書量による知識と、経験に基づいた言葉は今でも「名言」として生きています。
読書をせよ。だが学者になってはいけない。勉強は知識を得るためのものであり、人は行動することが第一である。」
「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり (正しいことを行うために、精一杯の誠意で相手に接すれば、それで心をうごかされない人はいない)」
これは一例ですが、松陰の生きざまが表れた言葉ですね。

吉田松陰の生涯を簡単に

生い立ちと、神童と呼ばれた少年時代

吉田松陰は1830年(天保1年)に、長州藩松本村(現在の山口県萩市椿東)の下級藩士の次男として誕生。幼名を矩方(のりかた)といいました。

両親と三男四女の兄弟が仲の良い家庭に育ち、教育熱心な父から畑仕事や手仕事をしながら学問を学びました。幼いころは、父の読み聞かせを聞きながら眠りにつくのがとても楽しみだったといいます。

6歳で山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎ、叔父の玉木文之進(たまき ぶんのしん)からスパルタ教育を受けます。
見かねた母が松陰を逃がそうとしたというエピソードがあるほど厳しい教えでしたが、その甲斐あって9歳で藩校「明倫館」の兵学講師となり、11歳で藩主毛利敬親(もうり たかちか )に講義するほどの神童ぶりを発揮。19歳で長州藩の山鹿流兵学師範として独立をはたしました。

列強に危機感を募らせた青年期

外国を体感した諸藩遊学

1850年(嘉永3年)21歳の松陰は、当時唯一の貿易港だった長崎へ遊学。初めて外国の人や文化・技術に触れます。

この時にアヘン戦争を知り、欧米列強に対する危機意識を持つと同時に、自身の兵学では列強の軍事力に対抗できないという現実に直面しました。

翌年には公務で江戸へ遊学。山鹿流兵学の修業のかたわら、こっそりと洋式兵学者の佐久間象山(さくま しょうざん)に師事します。

同年、ロシア船が出没する北方の海防の様子を見てみたいと、東北旅行を計画。ところが、長州藩に起きたトラブルの影響で通行手形の発行が遅れることになってしまいました。出発に間に合わないと見るや松陰は、予定より1日早く手形不携帯のまま、脱藩罪を冒して厳冬の東北へ向かったのです。

つぶた
つぶた
「旅の約束をしていた友達を待たせちゃいけない」という事情があるにしても、罪になるとわかっていてなかなかできることじゃないね

みかちゃん
みかちゃん
曲がったことが大嫌いな松陰にとって、約束を破ることは耐えられなかったのね


松陰は、道中立ち寄った水戸で、後に松下村塾の教育にも取り入れた水戸学や富国強兵の思想に触れます。しかし、蝦夷の地に足を踏み入れることは叶いませんでした。

ですが、旅のもう一つの目的、「武士の鏡と尊敬する高山彦九郎(たかやまひこくろう)の足跡を訪ねる」ことはできました。この後、彦九郎の戒名「松陰以白居士」にちなんだ「松陰」の雅号を使うようになったのです。

みかちゃん
みかちゃん
号といえば、松陰の心意気そのままといえる「二十一回猛士」もあるわね

つぶた
つぶた
松陰は『これまでに「脱藩」、「意見書提出」、「密航」と三回猛心を実行した。あと十八回やらなきゃ』って思ってたんだよ

みかちゃん
みかちゃん
これは密航に失敗して投獄されていた時の話ね。牢獄の中でこんなふうに奮起するなんて、不屈のチャレンジャーね

江戸へ戻り自首した松陰は、士籍と家禄を剥奪されます。しかし、藩主の格別のはからいで兵学者の職を失うことなく地元萩での謹慎でゆるされ、1853年(嘉永6年)遊学のため再び江戸へ向かうのでした。

兵学者の熱意

1853年(嘉永6年)江戸遊学中の松陰は、黒船来航の話を聞いて浦賀へ急行します。ペリー艦隊の圧倒的な軍事技術を目の当たりにして、鮮烈な危機感を抱きました。

この軍事力にはとうてい自分の兵学は通用しない。ならば洋式の兵学、近代の軍制を学べばよいではないか。そう考えた松陰は、西洋兵学の師と仰ぐ象山の示唆もあって、欧米への渡航を企てます。

1度目は出航に間に合わず失敗しましたが、1854年(安政元年)にペリーが再来航した際にポーハタン号に乗り込むことができました。ところが、日米和親条約を理由に渡航を拒否されてしまったのです。

松陰は大きな失望を抱えながらも、関係者を巻き込まないために自首します。
密航の罪は重く、萩の野山獄という牢に投獄されますが、またしても藩主の恩情で3年ほどで牢から出され、自宅軟禁の身となるのでした。

条約の締結以降、藩を越えて国家レベルの危機を意識するようになった松陰は、獄中で1360冊もの本を読み、列強の脅威から国を守るにはどうすればよいのかを真剣に考えました。

中でも日本史と孟子に強く影響を受け「日本は武威の国」という歴史認識をもち、「武力で問題解決できる」、国を強くするために「天皇を主権者と定める国家体制をつくろう」と、富国強兵や国体論へと思想を傾けていきます。

こうして自分の課題に取り組む一方で、松陰は同じ獄内の囚人たちに学問を説き始めます。
最初は聞き流していた囚人たちも、熱心に誠意をもって語る松陰の話にだんだんと耳を傾けはじめ、しだいに勉学に励むようになりました。

みかちゃん
みかちゃん
「どんな状況でも学問はできる」「学問は公のためのものである」という幼少期に受けた教育が、獄中という逆境のなかでも生きてたのね

つぶた
つぶた
「心を尽くして話せば伝わる」「一緒に善人になりたい」という思いを持った松陰らしいね

後に松陰が主催した松下村塾では、この獄中での講義の指導法が活かされ、学問を志す多くの若者が集い学びました。

1858年(安政5年)、幕府は日米修好通商条約に調印。大老:井伊直弼(いいなおすけ)が老中:間部詮勝(まなべ あきかつ)を上洛させて「安政の大獄」が始まります。

幕府としては諸大名に諮問を行った上での調印でしたが、事情を知らない松陰には条約締結は日本の国威をおとしめる許しがたいものでした。
松陰が国の主と仰ぐ天皇がこの調印を違勅としたこともあって、調印に関わった井伊と間部を敵視。ついには老中:間部の暗殺を企だてます。

現代の私たちの感覚からすると「暗殺」というのは過激な発想に思いますが、兵学者松陰にとっては国を守るために必要なことであって、尊王論からしても正しい行いと信じて計画を進めたのでした。

松陰の熱意とは裏腹に、この計画は頼みの門人たちには反対され、やがて長州藩の知るところとなってしまいます。
累が及ぶことを恐れた長州藩は、再び松陰を野山獄へ投獄し、暗殺計画は未遂に終わりました。

江戸で迎えた最期

1859年(安政6年)5月、松陰は幕府から呼び出しを受け江戸へ送られます。
松陰を待ち受けていたのは、安政の大獄に絡む事情聴取でした。

松陰は問われるままに自分の信念とこれまでの行いを供述。親身に耳を傾ける吟味役に対して、自身にとって正義の計画「間部詮勝暗殺」について熱く語ったのです。

江戸へ発つ前に「自分を見つめなおし、至誠の意味を今一度考えてみたい」と思っていた松陰は、吟味の場にあっても至誠を尽くしたのでした。

松陰の至誠の言葉と行動は幕府に受け入れられず、1859年(安政6年)10月27日に評定所で申し渡された罪状は「死罪」。同じ日に伝馬町の獄内で刑が執行されたのです。

吉田松陰は、打ち首によって29年の生涯を閉じたのでした。

まとめ

吉田松陰の生涯についてご紹介しました。

兵学者として、知識と教育に裏づけされた強い信念をもち、幕末の日本が直面した危機をいかに乗り切るかを真剣に考えて行動しようとした松陰。
信念を貫き、いつでもどんな状況にあっても精一杯努力しながら誠実に生きた生涯でした。

時代は変わりましたが、私たちも今できることに一生懸命頑張ったり、誠実に生きる姿勢に学んでいきたいですね。

※この記事は、『吉田松陰の時代/須田努』、『吉田松陰 幕末維新の変革者たち/木村幸比古』を参考にしました。