「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評されたほどの行動力で、奇兵隊創設や四境戦争など、脱兎のごとく活躍した長州藩士・高杉晋作。

彼による下関の功山寺挙兵がなければ、明治維新は数年遅れただろうといわれるほど、幕末の動乱の時代に大きな影響を与えた人物です。

そんな高杉晋作は、生前多くの名言を残しました。
今を生きるわたしたちに勇気を与えてくれる言葉や、あの高杉晋作でもこんな言葉を呟いたのだな、と少しほっとできるような言葉たちです。

「おもしろきこともなき世をおもしろく」はとくに有名だよね!
つぶた
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この記事では、『晋作語録』(一坂太郎著/第三文明社)から、高杉晋作の名言をご紹介します。


高杉晋作の生涯を簡単に

イラストACより)

高杉晋作は、戦国時代から毛利家に仕える家臣の家に生まれました。
今でいうエリートの家系です。

藩校明倫館に通い、剣術修行に励んでいた晋作でしたが、19才の頃吉田松陰と出会い、親に内緒で松下村塾に入塾。その志や日本の将来を憂う先見性に大きな影響を受けました。

24才の頃、アヘン戦争敗北後の上海へ行き、中国人が欧米列強に支配されている様子を見た晋作。
日本の将来に危機感を抱くと、帰国後、藩の同志とともに英国公使館を焼き討ち。過激な攘夷活動を展開します。

1863年、長州藩は攘夷を決行し、関門海峡にて外国艦を砲撃しますが、反撃を受け惨敗(下関戦争)。

晋作は下関の防御を一任されると、外国からの砲撃に備えるため、武士階級以外でも「志」があれば入隊できる奇兵隊を結成。初代総督を務めました。

急進的な攘夷運動のため朝敵になった長州藩は、藩内が俗論派(保守派)と正義派(攘夷派)に分裂。藩内は混乱を極めます。

(下関市功山寺)

幕府による第一次長州征伐が迫る中、晋作は分裂した藩内を統一するために、功山寺にてわずか80人の同志とともに挙兵
奇策により勝利をおさめ続け、藩内を武備恭順に統一し、藩の実権を掌握します。

しかし、晋作の身体は病魔に蝕まれていました。

1867年、下関の桜山にて肺結核の療養中、29才(満27才8か月)の若さで亡くなりました

高杉晋作の名言

男子というものは、困ったということは、決して言うものじゃない


後輩の田中光顕に向かって戒めた言葉。
この言葉は、晋作が父から与えられていた戒言といわれています。
その生涯のいかなる時も、父の言葉は、つねに胸にあったのでしょう。

予ひそかに喜びていわく、大丈夫宇宙の間に生く、なんぞ筆硯につかえんや


航海実習性として江戸に行くことになった際の言葉。
「男子として宇宙の間に生まれたのだ。筆や硯の家来になどなれるか」という意味で、江戸行きへの意気込みを感じられます。

翼あらば千里の外も飛めぐり よろづの国を見んとしぞ思ふ


江戸遊学中の言葉。遊学を希望する想いが溢れています。

あゝ、日本人は因循苟且(いんじゅんこうしょ)にして果断に乏しい。これが外国人の侮りを招く原因なのだ。嘆くべし、愧づべし


上海に出発する際、出航がかなり遅れたことに対しての言葉。

外乱より内乱の方、懼る(おそる)べきという心持ちなり


アメリカ人宣教師から南北戦争の話を聞いた感想。

我日本もすでに覆轍を踏むの兆しあり


植民地化した上海を目の当たりにして、このままでは日本も列強諸国に支配されてしまうのでは、という危機感。

私儀このたび国事切迫につき、余儀なく亡命(脱藩)つかまつり候。ご両人様(両親)へ御孝行つかまつり得ざるの段、いくえにも恐れ入り奉り候


大きな危機感を抱いて上海から帰国した晋作は、ついに政治活動に身を投じる覚悟を決めます。
その際、両親にあてた手紙の一文です。

願わくば馬関のことは臣に任ぜよ。臣に一策あり、請う、有志の士を募り一隊を創設し、名づけて奇兵隊といわん


下関戦争惨敗後、藩主親子から呼び出しを受け、軍備の立て直しについて案はないかと問われ、答えた言葉。
藩主の前で、奇兵隊結成を宣言したのです。

先生を慕うてようやく野山獄


師である吉田松陰と同じく、萩城下の野山獄に投じられた晋作が、投獄初日に詠んだ歌。

余、獄に下り来り、一日として読書せざるなし


師・松陰の志を継ぎたいという思いが高まり、獄中でも書を手放しませんでした。
獄中他の人々は、どうせ死刑になるかもしれないのに今さら勉強しても無駄だと、冷ややかな目で見ていたことでしょう。

もはや口下の間にては成敗の論無用なれば、これよりは長州男児の腕前お目にかけ申すべし


功山寺での挙兵にあたり、三条実美や五卿を訪ね、出された酒を飲み干して言った決起の挨拶。
長州藩の何千人にも及ぶ大勢力に対し、晋作の呼びかけに応じて立ち上がったのはおよそ80人。
兵力に絶望的な差がある、決死の覚悟での挙兵でした。

弟(晋作)事は死んでも恐れながら天満宮(菅原道真)のごとく相成り候志にござ候


功山寺挙兵で死を覚悟していた晋作は、死んで霊魂になっても、長州藩の要である下関を防御する覚悟を遺書に記しました。

余も世間の愚者とならんことを願い、ようやく苦穴に陥るまでに勉強致せしゆえに、世間の利発家者流の人は、吾が志を知らざる者なり


野山獄投獄中に記した『投獄日記』より。
器用に生きられない晋作は、晋作が少年の頃に読んだ書物の中にあった、「利発な人よりも愚者になれ」という教えに励まされてきました。

ここまでやったのだから、ここからが大事じゃ。しっかりやってくれろ。しっかりやってくれろ


病に倒れ、床に伏した晋作を見舞いに来た、井上聞多と福田侠平に向かって言った言葉。

人は人 吾は我なり 山の奥に棲てこそ知れ世の浮沈


病が重くなり、すべての職を退いた後に残した言葉。
目まぐるしく動く時代に取り残されていく寂しさをうたった、といわれています。

船はいずれへ着き候か、百姓の蜂起気にかかり、山口へただいまより出浮候


死の数日前、意識が混とんとする中、何度ももらしたうわごと。

辞世の句「おもしろきこともなき世をおもしろく」

辞世の句ではなかった?

晋作が死の床で「おもしろきこともなき世をおもしろく」と上の句を詠んだものの続かず、最期を看取った野村望東尼(のむらぼうとうに)が「すみなすものは心なりけり」と下の句を詠むと、晋作が「おもしろいのう」と呟き、息をひき取った。
晋作の辞世の句に関しては、このようにいわれてきました。

しかし近年、この歌が詠まれたのは1866年の暮れで、晋作が亡くなる4か月前とされています。
厳密にいえば、辞世の句ではないということですね。

不満を詠った句だった?

また、もともと晋作が詠んだのは「おもしろきこともなきおもしろく」であり、「」としたのは、のちの改作であるともいわれています。

晋作の辞世の句「おもしろきこともなき世をおもしろく」は、「このつまらない世の中をおもしろくしてやろう!」という晋作の破天荒な性分が伝わり、聞いたらなんだか元気が出てきますよね。
わたしもずっと、そう思ってきました。

ところが、「世を」を「世に」に変えるとどうでしょう。
「こんなつまらない世の中、おもしろくなかった」という不満にもとらえられるのです。

武士の家に生まれた晋作は、藩や国が危機にさらされているのを黙って見過ごすことができませんでした。
本当はもっと、違った生涯を送りたかった。
その思いが、死を前にしてこのような上の句を詠ませたのだともいわれています。

上の句を引きついだ望東尼は、それはその人の心の持ち方次第である、と諭すような下の句をつけています。

「おもしろきこともなき世におもしろく」。
句を詠んだ晋作の真意は今となってはわかないところですが、読む人の心情によっても、捉え方がかわるのではないでしょうか。

まとめ

高杉晋作の生涯と名言、辞世の句についてご紹介しました。
晋作が残した言葉に、励まされたり、共感したりする部分もあったのではないでしょうか。

豪快に、破天荒に幕末を駆け抜け、日本を新しい時代へ導いた高杉晋作。
生まれた時代が違っていたら、どんな夢を持ち、どんなことを成し遂げたのでしょうね。

高杉晋作の功山寺挙兵については、こちらの記事で詳しく書いています。あわせてどうぞ。