長州ファイブの一人で明治政府でも初代外務大臣になり、新時代の土台を作った功労者である井上馨。
明治の重要な歴史上の人物ですが、井上馨の実績や人物像については、地元山口でもあまり知られていないような気がします。
井上馨は2021年の大河ドラマの主人公・渋沢栄一とも交友があったといわれています。
また、防府にも関わりがありました。
今回は山口県の先人である井上馨について、生い立ちと生涯、渋沢栄一との関わりを調べてみました。
井上馨の生涯を簡単に
生い立ちと長州藩士時代
1836年(天保6年)、長州藩士 井上光亨の次男として今の山口市湯田温泉に生まれました。
現在、湯田温泉の生家があった場所は、井上公園として整備されています。
15歳の時に藩校だった萩の明倫館に入学し、兄と共に学びます。
それまでは農耕にも従事していたそうです。
1855年(安政2年)、21歳で藩主毛利敬親(もうりたかちか)の江戸参勤に従って江戸へのぼり、蘭学などを学びます。
毛利敬親からは通称である聞多(もんた)という名を拝受しました。
敬親に従って萩に戻りますが、海軍を学ぶため、ふたたび江戸へのぼります。
江戸では尊王攘夷運動に共鳴し、高杉晋作や伊藤博文らとともにイギリス公使館の焼き討ちを実行するなど、過激な攘夷活動を行いました。
長州ファイブとしてイギリスへ
しかし翌年の1863年(文久3年)、長州藩に外国行きを嘆願。
西洋の新しい技術や文化を学ぶため、伊藤博文、山尾庸三らとともに「長州ファイブ」の一人としてイギリスへ密航します。
長州ファイブのメンバー、密航に至った背景についてはこちらの記事をどうぞ。
長州ファイブ(長州五傑)とは誰?幕末に命をかけて密航した長州藩士たち
馨はイギリスで先進の技術を目の当たりにすることで、開国論者に転身。
1864年(元治元年)に下関戦争が勃発したことを知り、密航からわずか1年で伊藤とともに急遽帰国し和平交渉に尽力します。
しかし説得は失敗。
長州藩は敗北してしまいます。
同年、幕府によって第1次長州征討の命令が下されると、馨は藩内の保守派と対立、襲撃されて50針を縫うほどの瀕死の重傷を負ってしまいます。
あまりの傷のひどさから、馨は兄に介錯(切腹する人の首を切り落とすこと)を願い出ますが、母が断固として介錯を思いとどまらせ、奇跡的に一命を取り留めました。
その後、高杉晋作の功山寺挙兵に同調し藩論を開国攘夷に統一。
第二次長州征伐では幕府に勝利し、勝海舟と休戦協定を結ぶなど、幕末は高杉晋作や伊藤博文らとともに活躍しました。
明治政府で要職に、財政と外交を担う
幕府が幕を閉じた後、馨は長崎赴任を経て大蔵省の責任者となり銀行の設立などに努めます。
この時、2021年の大河ドラマの主人公「渋沢栄一」とともに仕事をしています。
しかし財政を考えない政府に怒りを感じ、1873年(明治6年)辞表を提出。
事業家に転身し、鉱山や貿易に携わる先収会社(のちの三井物産)を設立します。
混迷する新政府を立て直す必要を感じ、1875年(明治8年)、伊藤博文の説得によりふたたび新政府に復帰した馨は、今後の政府の方針などを協議した大阪会議を実現させます。
1885年(明治18年)、伊藤博文による初代内閣が組閣され初代外務大臣に就任しました。
鹿鳴館政策と条約改正
馨は外務大臣として、幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正、特に治外法権の撤廃に尽力します。
外国諸国は日本がまだ文明国であることを認めておらず、なかなか治外法権を撤廃しませんでした。
日本にはまだ迎賓館もなかった時代、馨は外国の国賓をもてなすための建物が必要だと考え、鹿鳴館の建設を決めます。
欧化政策で帝国ホテルも建設されましたね
しかし、急激な文明化で迎える日本側はうまくいかず、また国内でも欧化政策を批判する声があがります。
次第に鹿鳴館外交への風当たりが厳しくなり、馨の条約改正もうまく進みませんでした。
1887年(明治20年)、条約改正に行き詰ったことの責任をとって辞任。
鹿鳴館時代は4年で終了します。
外務大臣辞任後も農省務大臣や内務大臣、大蔵大臣など閣僚を歴任。
明治政府の元老として伊藤博文を支え続け、満79歳で生涯を閉じました。
山口市内の洞春寺には分霊塔が建立されています。
井上馨と渋沢栄一
井上馨と渋沢栄一は大蔵省で出会います。
馨が渋沢栄一よりも5歳年上でした。
馨は大蔵大輔、渋沢栄一は大蔵大丞として大蔵省のトップを担っていました。
当時の政府は急激な近代化のため、幕府時代の藩債を引き継いだり徴兵制による軍事費も増加。
政府の財政は緊迫していました。
そんな中、大蔵省は歳出の大幅カットを目指しますが、政府からさらなる予算を要求されます。
結果、井上馨と渋沢栄一は政府の要求に敗れ、大蔵省を辞任します。
しかし、ふたりは辞任時に、政府の方針には大幅な歳出超過があることを提言。ふたりの提言がきっかけで、予算公表制度が始まったそうです。
辞任後、馨は財界との関わりもありながら政界に復帰しますが、栄一は政界とは一切関わらず財界に身を投じます。
1901(明治34年)、馨は組閣作業で渋沢栄一を大蔵大臣に推しますが、栄一は政界に関わりたくないと断固拒否。馨は組閣を断念せざるをえませんでした。
結局、渋沢栄一と馨の進む道は全く違う道になってしまいました。
まとめ
今回は山口県出身の政治家、井上馨の生涯、渋沢栄一との関わりをご紹介しました。
井上馨はとても恩義に厚い人物だったそうで、高杉晋作の愛人おうのが貧しくて困っていたところ、寄付金を集めて東行庵(下関市)を作って与えています。
また毛利家の結束を図るために家憲を制定、毛利家本邸の土地を防府に探し、建築に着工しました。
気難しい変わり者だったという説もありますが、お世話になった人たちにはしっかりお返しをするという律儀な性格だったのですね。
また長寿だったため生涯で多くの人々と関わりを持ち、人生に影響を与えています。
明治新時代になくてはならない人物だったんですね。