国禁を破り、幕末、命がけでイギリスに密航留学した若者たちがいました。
彼らは伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、井上勝の5人。
近年「長州ファイブ」と呼ばれ、映画も制作されました。
長州ファイブの面々は明治維新後、政治や工業などの近代化政策において、とても重要な役割を果たしました。
その名はあまり知られていませんが、長州ファイブのひとり・遠藤謹助(えんどうきんすけ)は近代造幣技術の確立に貢献し、造幣の父といわれる人物です。
長州ファイブの一人・遠藤謹助
遠藤謹助は1836年(天保7年)、長州藩士の次男として生まれました。
謹助の若かりし頃のことはあまりわかっておらず、おそらく藩校の明倫館で学んだのではないかといわれています。
謹助が26歳の頃、長州藩は下関で外国船を攻撃し、攘夷を実行する一方で、イギリスに留学生を送り出すことを決めます。
当時謹助は、航海術を学ぶため外国行きを希望しており、長州藩の江戸屋敷に勤務していた兄の後押しによって、イギリス留学のメンバーに加わることができました。
ほとんど英語が話せなかった5人でしたが、必死にロンドン大学で学び、聴講の合間に視察を行っており、イングランド銀行や造幣局も訪れています。
きっと、世界最先端の造幣技術に目を見張ったことでしょう。
謹助は肺病を患い、1866年(慶応2年)に帰国。3年近くのイギリス留学を終えました。
帰国後は英語力を買われ、長州藩の外国との交渉や通訳として活躍しました。
遠藤謹助の功績は?
世界に誇る造幣技術の確立
大政奉還後の明治新政府では、謹助と同じくイギリスに渡っていた井上馨が造幣頭(ぞうへいのかみ・造幣局長)に任命され、近代的な貨幣制度を作ろうとしていました。
幕末、外国商人によって金貨が大量に海外に流出してしまい、日本の貨幣制度は混乱。外国と交易するには貨幣制度を整え、統一された通貨を作る必要があったのです。
近代的貨幣制度を作るのは、新政府の急務だったんだね
謹助は大蔵省の仕事につきますが、1870年(明治3年)、井上馨によって造幣権頭(ぞうへいごんのかみ:副局長)になります。
当時の日本には、近代的な貨幣を造る技術がなく、イギリス人技術者キンドルを新しくできた造幣寮の首長(工場長)に迎えていました。
おかげで日本の貨幣技術は向上しましたが、キンドルはたびたび横暴なやり方をし、外国人と日本人との対立が起こってします。
キンドルのやり方に抗議した謹助は、1874年(明治7年)に辞職したのです。
大蔵省に戻った謹助でしたが、造幣寮のことが気になり、大蔵省に建白書を提出。
そこには造幣から外国人を解雇し、日本人の手で技術を磨き、貨幣の近代化を達成しなければならない、という内容が書かれていたのです。
謹助の意見は採用され、キンドルは解雇。
1881年(明治14年)、謹助は造幣局長として復帰します。
造幣学の研究会を作って、イギリスの造幣技術を取り入れながら、日本人技術者の養成に努めます。
そして1889年(明治22年)、ついに日本人だけの力による初めての貨幣づくりに成功。
日本の貨幣の歴史におけるあらたな一歩を踏み出しました。
その3ヶ月後、病気のため亡くなりました。
造幣のためにその後半生を捧げたといっても、過言ではありませんね。
桜の通り抜け
大阪の春の風物詩である、造幣局の「桜の通り抜け」。
桜の開花時期に合わせ、およそ560mが市民に開放されます。
桜並木の開放を提案したのは謹助です。
造幣局が建てられた場所には全国から珍しい桜が多数集められており、局員だけがこの桜を見るのはもったいない、市民もともに桜を楽しもうとの思いから、1883年(明治16年)に始まりました。
1990年(平成2年)には「日本のさくら名所100選」に選ばれ、謹助の胸像と由来碑が建立されました。
まとめ
今回は、長州ファイブの一人、遠藤謹助をご紹介しました。
長州ファイブのメンバーの中であまり知られておらず、ただ一人華族の称号をもらっていない遠藤謹助という人物。
実際、その前半生や私生活などはわかっておらず、人物像を知る資料が残されていません。
あまり目立たない人物だったのかもしれませんが、現在の世界に誇る日本の造幣技術の基礎を築いたその功績は、とても大きなものがあります。
ぜひ、遠藤謹助という人物を知っていただき、また違った気持ちで貨幣を眺めてもらえたらな、と思います。
※この記事は、『夢チャレンジ きらり山口人物伝Vol.9』『長州ファイブ物語-工業化に挑んだサムライたち-』を参考にしました。