豪快な人柄で知られ、今も高い人気を誇る幕末の志士・坂本龍馬。
そんな彼には多くの仲間がいましたが、中でも長府藩出身の三吉慎蔵(みよししんぞう)は、龍馬とともに寺田屋事件に居合わせ、彼に大きな信頼を寄せられていた人物です。
この記事では、魅力あふれる長府藩士・三吉慎蔵の人柄や龍馬との関わり、お墓についてご紹介します。
三吉慎蔵とは?
三吉慎蔵は1831年(天保2年)、長府藩の剣術藩士・小坂家に生まれ、のちに三吉家の養子になりました。
藩校明倫館で学び、中でも宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)に長け、1885年に免許皆伝を受けています。
その後、藩主毛利元周(もとちか)に付き従って江戸にのぼった慎蔵は、西洋の砲術を習得。
1863年(文久3年)には、長州藩の外国船砲撃事件をきっかけに長州の精鋭隊の監督職を任され、高杉晋作の奇兵隊とともに幕府軍とも戦っています。
明治維新後は宮内庁に勤め、還暦後は地元の長府に戻って晩年を過ごしました。
三吉慎三と坂本龍馬は親友だった!
寺田屋事件で龍馬の命を救う
慎蔵が35歳の時、長州藩士・印藤聿(いんどうのぶる)の紹介で出会ったのが土佐藩士・坂本龍馬でした。
京都の情勢を探るよう命じられた慎蔵は、薩長同盟の締結に尽力していた龍馬とともに下関を出発します。
伏見の寺田屋で、慎蔵が龍馬から薩長同盟締結のあらましを聞いていたところに、大勢の伏見奉行の捕り方が襲撃!
慎蔵は槍で、龍馬は銃で応戦しますが、龍馬は切りつけられて手に深手を負ってしまったのです。
ふたりは捕り方の隙をついて、奇跡的に脱出。
もはやこれまでと、このまま自害しようとする慎蔵に対し、龍馬は「死を覚悟しているなら薩摩藩邸に行くよう」に伝えたそうです。
龍馬の言葉に思い直した慎蔵は、傷を負った龍馬を材木小屋に隠すと、命がけで当時奉行所の権限が及ばなかった薩摩藩邸に向い救援を要請。
そのおかげで龍馬は無事、命を取り留めたのでした。
また慎蔵はこの寺田屋事件の功績により、長州藩主・毛利敬親から刀を下賜され、長府藩の目附役に任じられました。
龍馬の妻を自宅に引き取る
寺田屋事件の翌年、龍馬は長崎から土佐に帰る途中に下関に寄港。
みずからの身に何かあった時のため、妻のおりょうとその妹のその後を慎蔵に託します。
翌年、土佐の坂本家に送り届けています。
どんな人柄だった?
慎蔵はとてもまじめで義理堅い人物だったとされています。
龍馬と寺田屋に宿泊した際も、慎蔵は京都の情勢を探るよういわれており、龍馬の命を助けるようには命じられていなかったそうです。
しかし、龍馬が襲撃された際、深手を負った龍馬を見捨てることなく命を救いました。
こうしたまじめな人柄が、龍馬をはじめ長府藩藩主や多くの人々の信頼を集め、歴史に名を残したのです。
65年も日記を書き続けた!
慎蔵はなんと、65年間も日記を書き続けていました。
寺田屋襲撃事件の詳細や幕末の動乱、明治期の華族たちの日常、慎蔵の家族の様子などが克明に記されています。
三吉家の家訓・誠は天の道なり
三吉家の家訓「誠之」。
もともとは、孔子の説いた「中庸」の一節、「誠者、天之道也。誠之者、人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするのは人の道なり)」からの言葉とされています。
「誠」は真実、道理を外れないことを意味しており、慎蔵はつねに「誠」を胸に刻んでものごとにあたっていたのでしょう。
生涯における慎蔵の行動をみても、「誠」を感じることができます。
三吉慎蔵の子孫は? お墓はどこ?
慎蔵は妻との間に3人の子どもをもうけました。
長男米熊(よねくま)は、長野県で蚕業教育者として活躍。日本初の本格的な蚕業専門学校を創設した人物です。
長女茂子はわずか3歳で死去。
次女友子も短命で、慎蔵より2年早く亡くなりました。
米蔵も友子も結婚していたため、慎蔵の血は現在に続いています。
慎蔵は下関市長府の功山寺境内、長府毛利家墓所の傍らにある三吉家のお墓に眠っています。
まとめ
坂本龍馬の親友として知られる、三吉慎蔵についてご紹介しました。
慎蔵は派手な功績や事件は起こしていないものの、そのまじめな人柄で龍馬を救い、裏側から藩や長府毛利家を支えた重要な人物でした。
わたし自身、慎蔵という人物を知らなかったのでお恥ずかしいのですが、ぜひ地元下関の方や山口県の方々に広く知ってもらえたら、と思います。