薩摩藩や土佐藩とともに、幕末の動乱期にあった日本を、大政奉還そして明治維新へと導いた長州藩。
長州藩はどこなのか、今の何県なのか、もちろん知っていますよね?
意外と、長州藩が現在のどこの県にあたるのか、ご存じない方も多いとのこと。
山口県民としてはちょっと、いや、かなり残念です…。
そこでこの記事では、長州藩の場所や藩主、家紋、石高や特産品など、長州藩のあれこれをご紹介していきますね。
幕末の長州藩では、有名な人物から志半ばで亡くなった人物まで、数えきれないほどの志士たちが、新しい時代を作るために活動していました。 どんな人物が活躍したか、ご存じでしょうか?山口県民としては、長州藩の志士を知ってほしいし …
長州藩はどこ?何県?
長州藩は、現在の山口県です。
当時、長門(ながと)国と周防(すおう)国の2国が合わさって、長州藩とされていました。
明治4年(1871)の廃藩置県後、長州藩はそのまま山口県になりました。
長州藩と山口県は同じということですね。
長州藩の藩主は?
長州藩主は毛利氏
長州藩藩祖は、毛利輝元(てるもと)。
「三本の矢の教え」で有名な、毛利元就(もうりもとなり)の孫にあたる人物です。
元就の頃(16世紀半ば頃)、毛利氏は中国地方10カ国を所領する一大勢力を誇っていました。
しかし輝元の代になり、関ヶ原の戦いで豊臣側の総大将に担ぎあげられたため、敗北。
戦後は外様大名として、長門と周防の2国に減封されました。
また、長州藩の中には支藩として小さな藩が4つあります(徳山藩、岩国藩、長府藩、清末藩)。
それぞれ毛利氏の一門が藩主を務めました。
毛利家の家紋は
毛利家の家紋は、「一文字三星」とよばれています。
これは先祖である阿保親王(あぼしんのう/平城天皇の息子)以来の紋で、由来書は見つかっていないのだとか。
しかし、家紋の三星は一般的に、オリオン座の中心に並列する3つの恒星のことを指します。三星は将軍星と呼ばれ、武人の象徴とされてきたそうですよ。
また、毛利家の略式や私用で使う「沢瀉(おもだか)」。
沢瀉は「勝ち草」と呼ばれ、武家では好んで使われた紋です。
戦の最中、毛利元就が「勝ち草」である沢瀉に、「勝ち虫」のトンボが止まっているのを見て勝ちを確信したことから、家紋を沢瀉に定めたといわれています。
長州藩の居城、なぜ萩?
これまで安芸(現在の広島県)に居城を構えていた毛利氏は、所領を減らされたため、あらたにお城を築くことになりました。
そこで、山口、防府、萩の3ケ所を築城候補地として江戸幕府に申請。
すると幕府から、瀬戸内海側の山口と防府はもってのほか、との返事があり、日本海側の萩にお城を築いたのです。
長州藩の石高は?
防長2国になった時点で、石高はおよそ30万石。
減封前はなんと120万石だったそうなので、約1/4の石高になってしまいました…。
毛利輝元は、失われた威信を取り戻すためにも、厳しい検地などの財政再建を実施。
その結果、江戸時代初期にはおよそ37万石が、毛利家の公式の石高として認められました。
長州藩の特産品と藩政改革
幕末の倒幕運動にしても何をするにしても、かなりのお金が必要です。
37万石だった長州藩でしたが、幕末には実質、100万石近くの石高を得ていたといわれています。
これは厳しい藩政改革によるものです。
長州には「防長三白(ぼうちょうさんぱく)」といわれる特産品がありました。
三白とは「米、紙、塩」のことです。
藩は収入を増やすため、開拓や干拓を行って、新しい田んぼや塩田を開発。山村では和紙づくりに注力しました。
もちろん支出を減らすため、参勤交代の経費を削減、藩の債務処理を行うなど、厳しい財政改革を実施。これらの改革のおかげで、幕末の志士たちも大いに活躍できたのですね。
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長州藩の藩校は
長州藩の藩校といえば、萩の明倫館(めいりんかん)が有名ですね。
明倫館は享保4年(1719)、5代藩主・毛利吉元が毛利家臣の教育のために開いた藩校です。
その後、嘉永2年(1849)に移転。剣術場と槍術場が拡張し、泳ぎや水中騎馬の訓練をする水練池などが整備されました。
まとめ
長州藩について、場所はどこなのか、藩主や石高など、長州藩のあれこれをご紹介しました。
山口県には、長州藩で活躍した人物たちの史跡や名所が、数多く残されています。
ぜひ実際に、長州藩のあった山口県に足を運んでみてくださいね。