幕末動乱期、倒幕に向けての激しい流れが生じていた長州藩。

その渦中では、多くの才ある若者たちが、志半ばにして非業の死を遂げました。
赤禰武人(あかねたけと)も、その一人です。

なんたん
なんたん
高杉晋作の奇兵隊で第3代総督を務めて活躍したのに、裏切りを疑われて28歳で処刑されたのよ
つぶた
つぶた
総督まで務めたのに裏切り者? いったい何があったんだろう…
この記事では、赤禰武人がどんな人物で、何を行って処刑されるに至ったのか、その生涯をまとめました。

赤禰武人の生涯

(1838年~1867年)

月性、吉田松陰の下で学ぶ

赤禰武人は、天保9年(1838)、瀬戸内海に浮かぶ柱島(現・岩国市)の医者の長男として生まれました。

15歳で大畠(柳井市)の僧で、攘夷を唱える月性(げっしょう)の門下生に。安政3年(1856)には、月性の紹介を受け、吉田松陰の松下村塾に学びました。

その頃、武人は島医者の身分では事を為すのは難しいと考え、武家である赤禰家の養子になります。

しかし、それを聞いた松陰は、武人の考えを批判する手紙を月性に送っていました。

それは、「武人をその地に閉じ込めては惜しい。国の大義の前では身分にこだわること自体が無意味だ」という内容のものでした。

つぶた
つぶた
松陰は武人の才能を認めてこんな手紙を送っていたんだね

吉田松陰の赤根武人の評価は

その後、萩を出て、京都の尊王攘夷派の儒学者・梅田雲浜(うめだうんびん)の下で学び始めますが、幕末の動乱(安政の大獄)に巻き込まれてしまいます。

武人は雲浜とともに、幕府を批判しているとの疑いで捕らえられますが、武人のみ釈放となり萩に帰還。

その際、松陰は雲浜を救出する計画を武人に詳細に伝えますが、実際に事を成すに至らず、雲浜は獄中で病死しました。

松陰は武人の才能を評価する一方で、「才あれど、気少し乏し」とする手紙を残しています。

なんたん
なんたん
武人には才能はあるけれども、実行力が少し不足していると考えていたようです

第3代奇兵隊総督に就任

その後、松陰も処刑され、月性も死亡。
3人の師を亡くした武人は、かれらの遺志を継ぐことを決意します。

つぶた
つぶた
才だけではなく、実行することを覚悟したんだね
文久2年(1862)、高杉晋作、久坂玄瑞ら同志11名とともに、攘夷を貫き国の盾になろうという志から、御盾組(みたてぐみ)を結成。

11月には建設中のイギリス公使館を焼き討ちする、過激な行動を行いました。

その頃、幕府に反する人物の粛清(安政の大獄)を強行した、大老・井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺されます。

この流れで勢いづいた藩は、幕府に攘夷決行を約束させたのです。

長州藩は文久3年(1863)5月、攘夷を決行。関門海峡に碇泊中のアメリカ、フランス軍艦を砲撃。しかし翌月、報復され大打撃をうけます。

これを受けて藩主・毛利敬親(もうりたかちか)の命により、高杉晋作が奇兵隊を組織。
武人は奇兵隊で、がっちりと晋作を補佐しました。

なんたん
なんたん
「不拒来者、不追去者、犯法者罰為賊者死」という、奇兵隊の隊則を提示したのが赤禰武人なんですって

そして数か月後には、第3代総督に就任。

元治元年(1864)8月、英・仏・蘭・米の四国連合艦隊が下関を砲撃。
武人は総督として奇襲攻撃などを行い勇敢に戦いましたが、兵力の差は埋められずに大敗しました。

藩のため奔走するも、裏切り者となる

同じく8月、会津、薩摩藩のクーデターにより、長州藩は京都から追放(8月18日の政変)。朝敵(朝廷に敵対するもの)とみなされ、これまでで最大の危機に陥ってしまいました。

混乱した長州藩内では、幕府への恭順を進める保守派が政権を握り、高杉晋作ら改革派(攘夷派)の粛清に乗り出します。

奇兵隊も解散させられ、晋作らは命を狙われる事態に。
この状況をみた武人は、内戦を避けようと保守派と改革派との調停に奔走。交渉によって事態を打開しようとしたのです。

しかし、事がうまく進みかけた矢先、高杉晋作の武力による決起が武人の思惑を打ち砕きます。

(功山寺 山門)

12月、晋作は功山寺(下関市)で、わずか80人の同志とともに決起。
決起は成功し、晋作は藩政府の実権を掌握。
藩論を「武備恭順」に統一。

保守派と調停を進めていた武人は、仲間たちに「裏切り者」とみなされてしまいます。

それでも藩のために、薩摩藩の協力を得られるよう奔走し続けたのです。

辞世の句「真は誠に偽りに似、偽りは以って真に似たり」

慶応元年(1865)、薩摩藩との盟約を実現するため、西郷隆盛を訪ねて赴いた大坂で、幕府の役人に捕らえられます。

およそ半年、厳しい尋問が行われました。
その中で幕府の役人は、第2次長州征伐を行うことをほのめかせ、武人に藩論を恭順に向かわせるように仕向けます。

藩を救いたい一心の武人。
幕臣らと長州に戻り、ゆかりのある場所を訪れては幕府に従うよう説得を試みます。

しかしこの半年の間に、藩内では倒幕の動きがふくらみ、武備(戦争への備え)が進んでいました。

それを知らずに必死に説得を続ける武人は、故郷柱島に戻った際、藩の役人に捕らえられてしまいます。

藩は武人を、「売国的」な裏切り者とみなしたのです。

つぶた
つぶた
藩のために一生懸命なのに裏切り者だなんて
なんたん
なんたん
ほんとに悔しかったろうね…
一度の弁明も許されないまま、慶応2年(1867)1月、山口の刑場にて斬首。

その際、獄衣の背には「真は誠に偽りに似、偽りは以って真に似たり」と記されていました。

「真実は偽りに似て、偽りは真実に似る」。
藩のために奔走しながらも報われなかった、武人の無念の思いが滲み出た辞世の句といえるでしょう。

赤禰武人の生涯・年表

年齢 武人の動き 取り巻く情勢
天保9年(1838年) 柱島(岩国市)の医者の長男として生まれる
嘉永6年(1853年) 15 月性の門下生になる ペリー、浦賀に来航
安政3年(1856年) 18 松下村塾の門下生になる
安政6年(1859年) 吉田松陰処刑
文久2年(1862年) 24 高杉晋作らとともに建設中だったイギリス公使館を焼討
文久3年(1863年) 25 奇兵隊に入隊
第3代総督に就任
長州藩、関門海峡を通過する外国船へ砲撃
高杉晋作奇兵隊結成
元治元年(1864年) 26 四国連合艦隊との戦闘を指揮
内戦回避のため奔走
長州藩、禁門の変で惨敗
高杉晋作、功山寺にて挙兵
慶応元年(1865年) 27 大坂で幕府に捕らえられる
長州藩と幕府の仲立ちを申し出て釈放
慶応2年(1867年) 28 柱島で捕らえられ、山口にて処刑

赤禰武人と高杉晋作

元治元年(1864年)12月、高杉晋作は功山寺にて挙兵します。

その際、晋作は「赤禰は一農夫、自分は譜代の家臣である」と隊員らを説得したといいます。

つぶた
つぶた
武人は身分が低いけど、自分は藩のエリートだぞ。あんな奴の言うこと気にするな、ってこと?
なんたん
なんたん
松陰さんは身分にこだわらないと言っていたのに、晋作は違ったのね…
高杉晋作は、その死の直前、武人を死なせたことの後悔を口にしたと伝えられています。
彼もまた武人と同じく、29歳でこの世を去ったのでした。

復権を妨げたのは山縣有朋?

明治に入り、親族、岩国、柳井の人々によって赤禰武人の復権運動が行われましたが、復権の願いは叶いませんでした。

武人の復権に反対を唱えたのが、奇兵隊で軍監としてともに戦った山縣有朋でした。

史料には、赤禰武人は最後まで勇敢に戦ったと書かれていますが(「白石正一郎伝」)、山縣有朋が「武人は敵前逃亡した」と証言したためです。

山縣有朋がこのように証言をした理由は、わからないままになっています。

まとめ

悲運の幕末の志士・赤禰武人の生涯をご紹介しました。

大政奉還がなされるまでに、志を遂げようと必死に奔走する中で、非業の死を遂げた若者がたくさんいました。

この記事で、藩のために、国のために、命をかけた志士・赤禰武人という人物について、関心をもっていただけるとうれしいです。

※記事内のイラストはイラストacより引用しました。

赤禰武人の運命に大きくかかわった高杉晋作について、こちらにまとめています。