
幕末動乱期、倒幕に向けての激しい流れが生じていた長州藩。
その渦中では、多くの才ある若者たちが、志半ばにして非業の死を遂げました。
赤禰武人(あかねたけと)も、その一人です。


赤禰武人の生涯

月性、吉田松陰の下で学ぶ
赤禰武人は、天保9年(1838)、瀬戸内海に浮かぶ柱島(現・岩国市)の医者の長男として生まれました。
15歳で大畠(柳井市)の僧で、攘夷を唱える月性(げっしょう)の門下生に。安政3年(1856)には、月性の紹介を受け、吉田松陰の松下村塾に学びました。
その頃、武人は島医者の身分では事を為すのは難しいと考え、武家である赤禰家の養子になります。
しかし、それを聞いた松陰は、武人の考えを批判する手紙を月性に送っていました。
それは、「武人をその地に閉じ込めては惜しい。国の大義の前では身分にこだわること自体が無意味だ」という内容のものでした。

吉田松陰の赤根武人の評価は
その後、萩を出て、京都の尊王攘夷派の儒学者・梅田雲浜(うめだうんびん)の下で学び始めますが、幕末の動乱(安政の大獄)に巻き込まれてしまいます。
武人は雲浜とともに、幕府を批判しているとの疑いで捕らえられますが、武人のみ釈放となり萩に帰還。
その際、松陰は雲浜を救出する計画を武人に詳細に伝えますが、実際に事を成すに至らず、雲浜は獄中で病死しました。
松陰は武人の才能を評価する一方で、「才あれど、気少し乏し」とする手紙を残しています。

第3代奇兵隊総督に就任
その後、松陰も処刑され、月性も死亡。
3人の師を亡くした武人は、かれらの遺志を継ぐことを決意します。

11月には建設中のイギリス公使館を焼き討ちする、過激な行動を行いました。
その頃、幕府に反する人物の粛清(安政の大獄)を強行した、大老・井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺されます。
この流れで勢いづいた藩は、幕府に攘夷決行を約束させたのです。
長州藩は文久3年(1863)5月、攘夷を決行。関門海峡に碇泊中のアメリカ、フランス軍艦を砲撃。しかし翌月、報復され大打撃をうけます。
これを受けて藩主・毛利敬親(もうりたかちか)の命により、高杉晋作が奇兵隊を組織。
武人は奇兵隊で、がっちりと晋作を補佐しました。

そして数か月後には、第3代総督に就任。
元治元年(1864)8月、英・仏・蘭・米の四国連合艦隊が下関を砲撃。
武人は総督として奇襲攻撃などを行い勇敢に戦いましたが、兵力の差は埋められずに大敗しました。
藩のため奔走するも、裏切り者となる
同じく8月、会津、薩摩藩のクーデターにより、長州藩は京都から追放(8月18日の政変)。朝敵(朝廷に敵対するもの)とみなされ、これまでで最大の危機に陥ってしまいました。
混乱した長州藩内では、幕府への恭順を進める保守派が政権を握り、高杉晋作ら改革派(攘夷派)の粛清に乗り出します。
奇兵隊も解散させられ、晋作らは命を狙われる事態に。
この状況をみた武人は、内戦を避けようと保守派と改革派との調停に奔走。交渉によって事態を打開しようとしたのです。
しかし、事がうまく進みかけた矢先、高杉晋作の武力による決起が武人の思惑を打ち砕きます。

12月、晋作は功山寺(下関市)で、わずか80人の同志とともに決起。
決起は成功し、晋作は藩政府の実権を掌握。
藩論を「武備恭順」に統一。
保守派と調停を進めていた武人は、仲間たちに「裏切り者」とみなされてしまいます。
それでも藩のために、薩摩藩の協力を得られるよう奔走し続けたのです。
辞世の句「真は誠に偽りに似、偽りは以って真に似たり」
慶応元年(1865)、薩摩藩との盟約を実現するため、西郷隆盛を訪ねて赴いた大坂で、幕府の役人に捕らえられます。
およそ半年、厳しい尋問が行われました。
その中で幕府の役人は、第2次長州征伐を行うことをほのめかせ、武人に藩論を恭順に向かわせるように仕向けます。
藩を救いたい一心の武人。
幕臣らと長州に戻り、ゆかりのある場所を訪れては幕府に従うよう説得を試みます。
しかしこの半年の間に、藩内では倒幕の動きがふくらみ、武備(戦争への備え)が進んでいました。
それを知らずに必死に説得を続ける武人は、故郷柱島に戻った際、藩の役人に捕らえられてしまいます。
藩は武人を、「売国的」な裏切り者とみなしたのです。


その際、獄衣の背には「真は誠に偽りに似、偽りは以って真に似たり」と記されていました。
「真実は偽りに似て、偽りは真実に似る」。
藩のために奔走しながらも報われなかった、武人の無念の思いが滲み出た辞世の句といえるでしょう。
赤禰武人の生涯・年表
年 | 年齢 | 武人の動き | 取り巻く情勢 |
---|---|---|---|
天保9年(1838年) | 柱島(岩国市)の医者の長男として生まれる | ||
嘉永6年(1853年) | 15 | 月性の門下生になる | ペリー、浦賀に来航 |
安政3年(1856年) | 18 | 松下村塾の門下生になる | |
安政6年(1859年) | 吉田松陰処刑 | ||
文久2年(1862年) | 24 | 高杉晋作らとともに建設中だったイギリス公使館を焼討 | |
文久3年(1863年) | 25 | 奇兵隊に入隊 第3代総督に就任 |
長州藩、関門海峡を通過する外国船へ砲撃 高杉晋作奇兵隊結成 |
元治元年(1864年) | 26 | 四国連合艦隊との戦闘を指揮 内戦回避のため奔走 |
長州藩、禁門の変で惨敗 高杉晋作、功山寺にて挙兵 |
慶応元年(1865年) | 27 | 大坂で幕府に捕らえられる 長州藩と幕府の仲立ちを申し出て釈放 |
|
慶応2年(1867年) | 28 | 柱島で捕らえられ、山口にて処刑 |
赤禰武人と高杉晋作
元治元年(1864年)12月、高杉晋作は功山寺にて挙兵します。
その際、晋作は「赤禰は一農夫、自分は譜代の家臣である」と隊員らを説得したといいます。


彼もまた武人と同じく、29歳でこの世を去ったのでした。
復権を妨げたのは山縣有朋?
明治に入り、親族、岩国、柳井の人々によって赤禰武人の復権運動が行われましたが、復権の願いは叶いませんでした。
武人の復権に反対を唱えたのが、奇兵隊で軍監としてともに戦った山縣有朋でした。
史料には、赤禰武人は最後まで勇敢に戦ったと書かれていますが(「白石正一郎伝」)、山縣有朋が「武人は敵前逃亡した」と証言したためです。
山縣有朋がこのように証言をした理由は、わからないままになっています。
まとめ
悲運の幕末の志士・赤禰武人の生涯をご紹介しました。
大政奉還がなされるまでに、志を遂げようと必死に奔走する中で、非業の死を遂げた若者がたくさんいました。
この記事で、藩のために、国のために、命をかけた志士・赤禰武人という人物について、関心をもっていただけるとうれしいです。
※記事内のイラストはイラストacより引用しました。
赤禰武人の運命に大きくかかわった高杉晋作について、こちらにまとめています。
「幕末の長州藩を代表する志士といえば?」 そう聞かれてまず初めに思い浮かぶのは、「高杉晋作」ではないでしょうか。 高杉晋作といえば、奇兵隊を創設したことで有名な人物。尊王攘夷派の中でも、とくに過激な思想の持ち主でした。こ …