日本のお城といえば、立派な石垣、高い天守閣を想像しませんか?
現在の山口県庁の場所にあった山口城(山口御屋形)は、わたしたちが想像するお城とは違う、高い石垣も天守閣もないお城。
幕末、藩庁が萩から山口に移され、建築されました。
旧藩庁門の存在は知っていても、県庁の場所が藩主の居城だったことはよく知らなかった、という方もいらっしゃるかもしれませんね。
築城された経緯、歴史は?
幕末、長州藩内では強固な攘夷(外国を打ち払う)論が唱えられ、諸外国からの攻撃に備えていました。
その際、海からの攻撃を考え、藩庁を日本海に面した萩の地から内陸に移すことを検討。
文久3年(1863年)、攘夷決行の日が決まると、藩主毛利敬親(もうりたかちか)は日帰りの湯治と称し、萩から山口の御茶屋へ行き、
そのまま山口に留まりました。
ちょっと面白いな
そして、山口に移住すること、新しい御屋形を造ることを幕府に申請。
翌年、山口御屋形の工事は完了します。
ところが、政変(クーデター)により攘夷派の長州藩は京都から追い出されてしまいます。
長州藩は黙っていられず兵をあげますが(禁門の変)、敗北。
幕府からは征討令を出され、窮地に陥ります。
この状況に、藩内でも保守派が実権を握り、藩主は萩へ避難。
幕府から山口御屋形の破壊を命じられ、泣く泣くできたばかりの御屋形を打ち壊します。
その後、藩内では攘夷派が政権を回復。
藩主はふたたび山口へ移り住み、慶応2年(1866年)、御屋形は2度目の完成を迎えたのです。
どんな城だった?
お城というと、立派な天守閣がそびえる姿を思い浮かべますが、山口城は「城」であるにもかかわらず、天守閣がありませんでした。
封建時代の城ではなく、これからの戦いを見据えた最新式の「西洋式城郭」だったのです。
大砲を配備して敵に備えて八角形に近い形の敷地にし、堀や土塁をめぐらせました。
その中に一部二階建ての御屋形が築かれたのです。
すごいなぁ!
遺構や見どころは?
敷地内には、当時のお堀や旧藩庁門が残されています。
近くで見ると、とても重厚な造り。
歴史の重みを感じます。
大きな門はかんぬきで閉じられており、脇の門から出入りできます。
お堀には鯉が泳ぎ、ハクチョウも羽を休めていました。
幕末の動乱は今は昔、お堀に沿って歩くと心安らぐ時間を過ごせますよ。
山口城(山口御屋形)の場所は?
旧藩庁門が残されている山口県庁は、国道9号線沿い。
近くには山口大神宮や香山公園など、大内文化の残した史跡や名所が点在しています。
最寄りのJR山口駅からは徒歩30分程度。
駅前からほぼまっすぐ歩いていくと、県庁が見えてきます。
駐車場:あり(県庁駐車場、無料)
アクセス:
車の場合/中国自動車道小郡ICから車で17分程度
公共交通機関/JR山口駅から中国JRバスで10分(40分間隔で発車)
まとめ
山口城(山口御屋形)についてご紹介しました。
じつは、県庁というイメージが強くて、山口城といってもあまりイメージがわかなかったのですが、調べてみて、山口城の奥深さに驚かされました。
幕末だからこそ、あえて背が低い西洋式城郭として築かれたとのこと。
長州藩は時代の先を読んでいたのですね。
県庁敷地内には、大正時代に建てられた旧県庁舎建物を県政資料館として開放しています。
また、近くには大内氏が伊勢神宮からご分霊を勧請して創建した山口大神宮、五重塔で有名な香山公園もあります。
山口城とともに、山口市内の史跡・名所巡りもおすすめですよ。
※山口城築城の経緯、特徴などは、2011年1月28日の元気発信!!「山口きらめーる」(現在は山口県魅力発信サイトきらりんく)を参考にしました。
合わせてどうぞ^^
山口大神宮は、大内氏第15代当主・義興(よしおき)公が、伊勢からご分霊を勧請して創建した神社で、2020年(令和2年)に鎮座500年を迎えた古社です。 伊勢信仰が盛んだった江戸時代には、「西のお伊勢さま」といわれ、多くの …
山口市で必見の観光スポットといえば、瑠璃光寺の五重塔です!四季を通じて美しい五重塔をご覧になることができます♪