こんにちは、防府市の主婦なんたんです^^
山口県長門市ゆかりの童謡詩人・金子みすゞには、のちに劇作家として活躍した弟がいました。
小さいときに家の都合で養子に出され、離ればなれに暮らすことになった姉と弟。
弟は姉がいることを知らずに一人っ子として育ち、実の姉であるみすゞ(本名テル)を従妹のお姉さんと思って接していました。
今回はテルさんと弟・正祐(まさすけ)さんの心の交流と、その後についてご紹介します。
・みすゞさんの生涯はこちら
→ 金子みすゞの生涯・人生。時代に翻弄されながら強く生きた幻の童謡詩人
・みすゞさんと娘さんについてはこちら
→ 金子みすゞと娘・ふさえさんのその後、娘への愛のこもった『南京玉』
離ればなれになった姉と弟
テルには2つ上の兄と2つ下の弟・正祐の兄弟がいました。父と母、祖母と兄弟3人で暮らしていましたが、父はテルが2歳の時に清国で命を落とします。
父を失った矢先、弟の正祐が母ミチの妹フジが嫁いだ下関の上山文英堂へ養子にもらわれることになりました。
上山文英堂の店主、松蔵とフジの間には子どもができませんでした。そこで、父親の顔を覚えていない、1歳に満たない正祐を上山文英堂の跡継ぎにしようと考えたのでした。
母ミチは妹フジの家族のことを思い、また夫がいなくなって家族のこれからに不安を感じていたこともあり、正祐を養子に出すことを決めました。そのためミチは上山文英堂の後押しで、仙崎で金子文英堂を始めることができたのです。
こうしてテルは幼いころに、弟と離れて暮らすことになったのでした。
養子であることは、正祐には一切秘密にされました。本当の家族とほとんど交流を持たなかったのも、そのためのようです。
正祐は下関の家で一人っ子の跡取り息子として甘やかされ、何不自由ない生活を送って育ちました。
テルと正祐の再会
1918年(大正7年)、正祐が13歳のころ、義母フジが41歳の若さで亡くなります。
フジが亡くなった後、松蔵はテルの母であり、正祐の本当の母であるミチと再婚します。ミチは、幼いころに手放したかわいい息子を思って再婚を決めたようです。
弟が養子に出されたことを知っているとはいえ、仙崎に残されたテルはさみしかったでしょうね。
フジが亡くなり、母のいない生活の中、上山文英堂においてある文芸誌「赤い鳥」に没頭し、その中の詩やさし絵に想像の翼を広げて、寂しさを紛らわせていた正祐。
同じように、金子文英堂においてあるたくさんの本を読み、文学や芸術へのあこがれを抱いていたテル。
ミチと松蔵の再婚をきっかけに下関の上山家と仙崎の金子家は交流を持つようになり、これまで接点がなかったテルと正祐は再会。
文学や芸術に対する共通の話題もあって話が合い、交流を持つようになります。
次第にふたりは、文学や芸術について思い切り語り合える同志のような存在になっていました。また正祐にとってテルは、文学に精通したあこがれの年上の女性に映っていたのかもしれません。
ふたりの交流とテルの結婚
大正12年、兄が結婚することになり家に居づらくなったテルは、下関に出てきます。テルは下関で上山文英堂の小さな支店を任されました。
この頃からテルは、金子みすゞとして詩を書き始めます。西城八十に評価され、雑誌にも入選。多くの詩を書いては投稿し、雑誌をにぎわせます。
正祐は同志であるテルの入選に触発され、曲を作って雑誌に投稿するなど、お互いに影響を与え合いました。
こうして正祐の文芸への熱が高まりますが、父松蔵は正祐を書店の跡継ぎにしたいという強い思いがあり、父と正祐の間にはわかりあえない溝ができていました。
そこで松蔵は腕のよい奉公人、宮田敬一を抜擢します。敬一をテルと結婚させ、正祐がいずれ店主となるまでの店主代理として、店を切り盛りさせようと考えたのでした。
店の今後を考えてのこともありましたが、正祐とテルの仲が深まりすぎるのではないか、と心配してのこともあったようです。
正祐はテルの結婚に猛反対しますが、テルが結婚すれば自分は店を継がなくてもよいことを思い、本人がそれでいいのなら、とテルの結婚に承諾します。
そして徴兵検査で自分が養子であることにうすうす気づいていましたが、テルと結婚問題について話し合う中で、ほんとうのことを姉から聞くことになります。
みんなが知っている事実を自分だけが知らなかったこと、テルが姉であることへのさみしさもあったでしょうが、一人っ子ではなく血のつながった兄姉がいたという安心感もあったのではないでしょうか。
とはいえテルから本当の話を聞いた翌日、高熱を出すほど衝撃を受けたようです。
離れていくふたり
1926年(大正15年)、テルは結婚。
正祐と敬一の折り合いが悪くなり、松蔵への誤解から敬一の店主代理の話がなくなるなどの波乱もある中、テルはお腹に子を宿します。そしてテルは女の子を出産します。
育児に追われ母親の顔ばかり見せ、以前の神々しかった芸術の友テルの姿が見られなくなったことに、正祐は悲しみと失望を覚え始めます。
そして、ふたりはそれぞれに違う道を進み始めることになります。とはいえ、手紙での交流は続いていました。
正祐は松蔵に懇願して上京。脚本家を志して雑誌の編集部で働き始め、次第に文筆家・上山雅輔(うえやまがすけ)として活動し、どんどんと交友関係も広がっていきました。
いっぽうのテルは育児に携わるなかでも詩作に励みますが、夫との結婚生活がうまくいっていませんでした。夫は遊郭での病気をテルに移してしまい、テルは次第に体が弱っていきます。そんな中でも詩作に精を出すテルを見て、夫はテルの詩作を禁じます。
そしてついに、離婚するのでした。
(「別冊太陽」金子みすゞ生誕100年 70ページ)
1930年(昭和5年)、テルは26歳の若さで自殺。正祐はその知らせを聞き、急ぎ帰郷します。
テルさん亡き後、正祐は仕事の忙しさにかまけ、テルからの悩みの手紙に対して親身に返事を返さなかったことへの後悔にさいなまれます。
テルは3通の遺書と自作の詩集を残し、その中の1通は正祐にあてたものでした。
手紙の最後は「さらば我等の選手!勇ましく往け!」で結ばれていました。
テルにとって、自分がなしえなかった文学、芸術の世界での成功を正祐に託したかのような言葉。心の同志としてお互いを高め合ったからこそ、託せた思いなのではないでしょうか。
みすゞ亡き後
正祐は結婚し子どもももうけ、家業である書店を継ぎます。しかしテルの自殺への苦悩から仕事に身が入らず、遊び惚ける日々を送り続けました。
ですが、母ミチからの「いつまで続けたら気が済むんかね」という怒りと悲しみがこもった言葉に、東京に戻って家族3人でやり直すことを決めます。
そして東京で劇作家として活躍。妻と娘とともに、1949年(昭和24年)に多くの有名な俳優や声優を輩出した「劇団若草」を設立します。
その一方でテルが残した自作の詩集を世に出そうと奔走し、1984年にやっとの思いで遺稿集が出版されました。
こうして、青春を同志として過ごした弟によって、姉・金子みすゞの詩はたくさんの人々に知られることになり、多くの人たちの心に寄り添っています。
(『みすずと雅輔』松本侑子著 新潮社刊、別冊太陽『生誕100年記念金子みすゞ』を参考にしました)
まとめ
今回は金子みすゞ(テル)と実の弟、正祐さんとの交流と心の結びつきをご紹介しました。
幼いころに分かれて一緒に暮らすことができなかった姉と弟。ですが、文学、芸術をつうじてお互いに影響を与え合い、充実した青春を共に過ごした同志として、姉であるテルさんが亡くなった後も深く心が結びついていました。
離れて暮らしていたからこそ、姉と弟という枠を超えた結びつきができたのかもしれませんね。
正祐さんが時間をかけて世に出されたみすゞさんの詩。ぜひ味わっていきたいですね。