奇兵隊を立ち上げ、功山寺挙兵にて藩内を統一し、命をかけて明治維新への道筋を作った長州藩士・高杉晋作。

彼は1867年(慶応3年)4月、わずか29才(満27才8か月)の若さで、志半ばにしてこの世を去りました。

つぶた
つぶた
高杉晋作はどうして早死にしたの?
明治政府で活躍してもおかしくない人物なのに
彼の血は受け継がれているのかしら
なんたん
なんたん

この記事では、波乱の人生を生きた高杉晋作の死因や子孫、晩年の様子やエピソードについて迫ってみました。

高杉晋作の死因

(高杉晋作像)

高杉晋作の死因は、当時不治の病といわれた肺結核です。

1866年(慶応2年)、四境戦争(幕府が長州藩に対して起こした戦争、長州征討)で小倉口での攻防が始まった7月ごろから、晋作は体調不良を訴えるようになっていました。

たびたび熱を出したり咳が止まらないという、風邪のような症状を発症していましたが、これは生まれ持った呼吸器系の疾患によるところだったようです。

なんたん
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もともと晋作は身体が強い方ではなく、小さい頃はすぐに熱を出しては寝込むような虚弱体質でした

かなり悪かった病状はいったん落ち着きますが、藩のために東奔西走して采配をふるい、弱った身体に無理を重ねた結果、一気に病状が悪化し、喀血してしまいます。

晋作、晩年の様子

喀血した晋作は、病床に伏すことが多くなり、愛人おうのと下関の桜山の招魂場下に建てた小さな家に移り住みます。
晋作はその小さな家を、東行庵と名づけました。

症状が落ち着いて気分が良い時、油断してしまうのはよくあることですが、晋作もまたそうでした。
小倉藩との和議の条件について、飲みながら夜半まで論じ合ったためか、ふたたび喀血してしまいます。

志半ばで床に臥す無念さ

「人は人吾は我なり山の奥に棲みてこそ知れ世の浮沈」

病状が悪くなり、藩のすべての職を解かれた晋作は、めまぐるしく動く時代に取り残される寂しさを歌にしました。

ある日、見舞いに来た野村望東尼に、「おもしろきこともなき世をおもしろく」と上の句を示し、望東尼は「すみなすものは心なりけり」と下の句を続けてやりました。

この句は辞世の句と言われていますが、実際には死の4か月前に詠まれ、厳密には辞世の句ではないとされています。

また、病状に見まいに来た井上聞多と福田侠平に、「ここまでやったのだから、ここからが大事じゃ。しっかりやってくれろ。しっかりやってくれろ」と繰り返したといいます。

新しい時代にむけて同志たちが奔走する中、志半ばにして、ただ床に伏せるしかない無念の思いは、どれだけのものだったことでしょう。

晋作の臨終

(高杉晋作終焉の地)

1867年(慶応3年)3月、萩から両親と妻のまさが見舞いにやってきます。
遠路はるばる下関までやってくるほど、晋作の病状は急激に悪化していました。

まさはその時の晋作の様子を、だいぶ悪くなり、たくさん吐血していたと伝えています。

まさは数日逗留しただけで萩に帰っていますが、この時、おうのと望東尼、萩の僧侶桧龍眼の3人がつきっきりで看病にあたっており、まさの出る幕はなかったそうです。

なんたん
なんたん
まさは心配でたまらなかったのではないでしょうか…

同じく3月、晋作の臨終が近いとの知らせを受けた藩は、晋作を初代とする谷家に百石を与え、八組に加えてこれまでの功に報いています。

晋作が亡くなったのは、4月13日深夜でした。
誰かが看取ったのか、ひとり静かに息をひき取ったのかは、定かではありません。

遺言により、彼の遺骸は奇兵隊の本陣があった厚狭郡吉田村(現在の下関市吉田)の清水山に埋葬されました。
愛人おうのは仏門に入り、谷家を継いで谷梅処(たにばいしょ)と称し、晋作の同志によって清水山の麓に建てられた東行庵にて、死ぬまでその菩提を弔い続けました。

(東行庵)

東行庵は現在、早春は晋作の愛した梅の花、初夏は菖蒲、秋は紅葉と、四季の花々が美しい場所として、多くの人々の憩いの場となっています。

晋作の子孫は

晋作と妻まさの間には、一人息子の梅之進がいました。

梅之進が数えで4歳の時に晋作が死去したため、一緒に過ごす時間は短かったものの、晋作は梅之進を大変かわいがり、「偉くなれ、偉くなれ、国のために尽くす様になれ」と念じるように話しかけていたといいます。

1877年(明治10年)、梅之進は学業のため、母まさ、祖父母とともに上京。
東一(とういち)と改名して、商法講習所(一橋大学の前身)で学んだ後、外交官になって外国に駐在。
1913年(大正2年)、東京で亡くなりました。

つぶた
つぶた
高杉晋作の子という過剰な期待に苦しんだ日々だったかもしれないね
東一は妻茂との間に、4人の子をもうけましたが、そのうち3人は若くして亡くなっています。
ひとり残った春太郎に子があり、現在まで晋作の血は受け継がれているとのことです。

まとめ

高杉晋作の死因、晩年の様子や、子孫についてご紹介しました。

もともと強い身体ではなかった晋作でしたが、高い志があったからこそ、あれだけの行動を起こすことができたのでしょう。
彼の無茶で縦横無尽の働きがなければ、歴史は今とは違うものになっていたかもしれません。

なんたん
なんたん
子孫が今も生きていて、晋作の血が受け継がれているのは嬉しいですね
晋作とおうの、妻まさ、息子の東一は、下関市吉田の清水山(東行庵そば)に眠っています。
晋作の志を感じに、四季の花が美しい東行庵へ足を運んでみてはいかがでしょうか。

高杉晋作が残した名言、辞世の句についてはこちらでご紹介しています。


※内容は『高杉晋作』一坂太郎著/角川ソフィア文庫、『高杉晋作』海原徹著/ミネルヴァ書房を参考にしました。
高杉晋作の生涯を感じてみませんか。