こんにちは、防府市の主婦なんたんです^^
山口県の県庁所在地は山口市です!

ですが県外の方からは、「なぜ山口市が県庁所在地なの?」とか「県庁所在地なのに駅が小さいのはなぜ?」という声も聞かれます・・・。

つぶた
つぶた
人口から考えたら下関、歴史から考えたら萩が山口県の中心なのでは?と思う方もいるみたいだよ。

そこで今回は、現在の山口市がどんな都市か、なぜ山口市が山口県の県庁所在地になったのか、その歴史的背景について調べてみました。

県庁所在地 山口市ってどんな都市?

山口市の場所や特徴は?

山口市はちょうど山口県の中央部に位置しています。
地形は盆地で、冬は寒く夏は暑い気候です。

室町時代に西の京として栄えた山口には、国宝である瑠璃光寺五重塔や京の鴨川に見立てられた一の坂川など、歴史を感じる建物や景観が残され、たくさんの観光客が年間を通じて訪れます。

(パークロード)

海に面していないため工業地帯などはありませんが(一部地域が海に面しています)、市の中心部にはパークロードが整備され、周辺には県立美術館や博物館などの文化施設や官公庁が立ち並んでいます。

なんたん
なんたん
パークロードを歩いて県立美術館に行くのが、若かりし頃のわたしの憧れでした。

面積や人口は?

山口市は平成の大合併を経て、面積は1023.23㎢と山口県最大に、人口は下関市に次ぐ2位になりました。
令和2年12月現在で人口はおよそ19万人です。

市の面積は日本全国の県庁所在地の中で4位、人口の多さは45位、人口密度は47位(令和2年10月現在、ランキングデータより)。

つぶた
つぶた
山口県らしく、山口市はのんびり広々した県庁所在地ということですね。

なぜ山口市が県庁所在地になった?

人口は県で2位、合併以前は交通面でもJRの本線が通っていなかった山口市。

なんたん
なんたん
なぜ下関や萩ではなく、山口市が県庁所在地になったんでしょうか。
歴史的な背景をみてみましょう。

西の京として繁栄した山口

7世紀にはじまる律令制度によって、今の山口県の地域には周防国と長門国が設置されました。
周防国の国府は防府に置かれて栄えていたのですが、鎌倉時代が終わるころ、大内氏が周防国守護として任じられます。

大内氏は長門国にも勢力を拡大、長門と周防2国の守護となります。
24代大内弘世(ひろよ)は本拠地を防府から山口に移し、京都を模した街づくりをすすめました。
以後、大内氏の歴代当主は京の都を模した街づくりを継承したのです。

(一の坂川)

なんたん
なんたん
弘世が山口を選んだのは、京の都と同じで山口の地が風水的にとてもよい「四神相応の地」だからと言われています。

江戸時代、中心地は萩へ

その後、大内氏は毛利氏によって倒され、長門と周防は毛利氏の勢力下に置かれます。
中国地方一帯に勢力を広げた毛利氏の居城は広島に置かれましたが、山口には山口奉行が置かれ、周防と長門の中心地であり続けました。

隆盛を誇った毛利氏でしたが、関ヶ原の戦いの後は長門と周防の2国に厳封。
そのため、長門と周防の地に新たな居城が必要となりました。

(萩城趾)

毛利家は山口、防府、萩の3か所を居城の候補地として幕府に伺いを立てますが、山口・防府は身の程知らずにもほどがあるとされ、中心地は萩に移ることになります。

つぶた
つぶた
ほんとは山口を居城にしたかったんだって。

ふたたび中心地は山口へ

幕末、藩主毛利敬親(たかちか)は有能な人物を登用し藩政改革を実行、長州藩の財政を改善し、攘夷を唱え明治維新への道筋を作ります。
藩の方針を攘夷とし文久3年(1863年)に海からの攻撃を防ぐことを理由に、藩庁を萩から山口に移転
藩主の居館とともに山口政事堂を建築しました。

(藩庁門趾)

つぶた
つぶた
藩内では山口屋形(やまぐちやかた)、藩外からは山口城と呼ばれていたんだって

なんたん
なんたん
居館という形でしたが、外には水堀と石垣が築かれています

(山口屋形跡 水堀)

しかし幕府による第一次長州征伐の後、いったん萩に藩庁が戻ります。
その後、高杉晋作の功山寺挙兵から倒幕派が藩政を掌握したことによって山口政事堂が再建され、ふたたび山口が政治と軍事の拠点となったのです。

明治4年(1871年)の廃藩置県後そのまま県庁が置かれ、山口が県庁所在地になりました。

つぶた
つぶた
山口を拠点にすることは江戸時代の間、毛利家の宿願だったみたいだよ

明治以降の山口は

明治22年(1889年)の市町村制によって山口町が誕生。
山口町は山口県の政治と文化の中心になっていきます。

その後、上宇野令村、下宇野令村と合併するも、市制施行の条件である人口3万人になかなか届かず。
昭和4年に吉敷村と合併して、ようやく「市」になりました。

山口市が現在そこまで人口が多くないのは、江戸時代に中心地が萩に移った間、多くの建物や屋敷が土に還ってしまい、宿場や役所はあったものの産業が発展しなかったためではないかと考えられています。

(新山口駅)

鉄道も当初は三田尻(防府)から山口を通って小郡(今の新山口)に出る予定でしたが、経済的な理由や山口には鉄道に反対する人も多かったため、山陽本線の路線から外れてしまいました。

旧山口市にはJRの支線である山口線が通っており、山口駅が市中心部の玄関口になっています。
また平成の大合併により、新幹線とJR山陽本線の玄関口である新山口駅の所在地が山口市内になりました(旧小郡町)。

まとめ

山口市が県庁所在地になった歴史的な理由や、現在の山口市についてご紹介しました。

他県の方から見ると、「なんで山口市はあまり都会ではないのに県庁所在地なんだろう?」と疑問がわくこともあるかと思います。
ですが山口県にとって山口市は、歴史的にもとても重要な場所。
大内氏や毛利氏が政治と文化の中心として拠点にした場所であり、風水から見てもとても良い地形。
そうしたことから、県庁所在地は山口市になったんですね。

わたしにとっては今でも山口市は憧れの文化都市です。
歴史的なものからか、とても品を感じるんですよね^^
山口市には大内文化の建物などたくさん残されていますので、ぜひいらっしゃってくださいませ。