数方庭祭とは、いったいどんなお祭りかご存じでしょうか?
このお祭りは「すほうていさい」と読みます。
数方庭祭は、下関市長府にある忌宮神社にて毎年夏のお盆前に一週間近く毎晩行われるお祭りで、山口県の無形文化財に指定されています。
今回は、ぜひ知っていただきたい数方庭祭の、行われる時期や起源、歴史などについて詳しくご紹介します。
数方庭祭の起源は?
数方庭祭はおよそ1800年続く天下の奇祭です。
祭りが行われる忌宮神社は、仲哀天皇と神功皇后が193年の熊襲(くまそ)征伐の際に、ここを仮の皇居として豊浦宮を建て、7年間滞在し政務をとったと言われています。
新羅の塵輪(じんりん)が熊襲を扇動して豊浦宮に襲い掛かった際、苦戦する兵士たちを見た仲哀天皇は、自ら弓矢を持って塵輪を打ち倒しました。
それを見た塵輪の軍勢はたちまち撤退。
天皇の兵士たちは喜び勇んで、塵輪の死体の周りを踊り回ったそうです。
忌の宮神社の鬼石とは?
忌の宮神社の境内には、「鬼石」と呼ばれる石があります。
この石は、仲哀天皇が打倒した塵輪の首を切って埋め、その上に載せた大きな石。
塵輪の顔が鬼のようであったことから、鬼石と言われています。
出陣、戦勝の際には鬼石の周りを踊り回ったと言われ、現在もなお、鬼石を囲んで踊り回ります。
こうして熊襲征伐の戦勝を祝ったことが始まりとされる「数方庭祭(すほうていさい)」が、毎年夏、長い歴史を経て繰り広げられているのです。
数方庭祭の時期はいつ?場所は?
歴史ある数方庭祭は、毎年8月の7日~13日の7日間、毎晩行われます。
時間は19時30分~21時30分、忌の宮神社の境内で開催されます(本殿祭は19時から)。
数方庭祭はどんな祭り?
男性たちは、2本の竹を継いで幟(のぼり)を飾り付けた大幟(おおや)と呼ばれる長さ20~30mの竹を担ぎ、女性たちは切籠(きりこ)と呼ぶ灯籠を吊した笹竹を持って、鬼石の上に据えた大太鼓の周りを舞い踊ります。
太鼓の合図とともに、さまざまな幟が鬼石の周りを舞う様子は圧巻。まさに天下の奇祭です。
幟には小幟、中幟、大幟があり、子どもは長さ4mの小幟を担ぎます。
子どもたちは毎年少しずつ大きな幟にチャレンジするのだとか。
大幟は重さ100㎏にもなるそうで、その操縦には長年培ってきた熟練の技と力を要します。
安全のため、1本の大幟に2~3人の介添えがつくそうですよ。
この幟の竹は、毎年祭り用に新しいものが作られています。
祭り前の6月下旬に竹の下見に行き、7月中旬に持って帰るのだそうです。
そして境内に置かれた塩桶の中の海水で清めて使われます。
数方庭祭の歴史と変遷
祭りが現在の形になったのは、江戸時代の長府藩三代藩主毛利綱元の頃と言われています。
それまでは男性は刀や矛を、女性は油筒を持って鬼石の周りを回っていましたが、毛利綱元以降は竹竿幟を持ち、女性もこれまで油筒を持っていたのが灯篭に代わったのだそうです。
竹竿幟も、小幟や中幟が多かったそうですが、大正時代頃から次第に大幟が増え、いっそう勇壮な景観を見ることができるようになりました。時代とともに、天下の奇祭も変遷してきたのですね。
数方庭祭の駐車場、アクセスは?
忌宮神社に駐車場はありますが、あまり台数は停められません。
長府地区には有料の駐車場が数多くありますので、車でお越しの方はそちらをご利用ください。
また、JR下関駅からバスでのアクセスも便利です。
城下町長府へのアクセスはこちらの記事をご参照ください。
>>城下町長府のアクセス【バスまとめ】下関駅など・時刻表・運賃を徹底紹介
まとめ
今回は下関市長府の忌宮神社で行われている数方庭祭をご紹介しました。
子どもから高齢の方まで200人もの担ぎ手が参加し、戦時中も途切れることなく開催され続けてきた数方庭祭。
親から子へ、子から孫へと、世代を超えて連綿と受け継がれている、長府の人々の大切なお祭りです。
ぜひ数方庭を体験してみてください!
数方庭祭が行われる忌宮神社についてはこちらでご紹介しています。
⇒ 忌宮神社【下関市長府】ご利益や鬼石、御朱印、駐車場を解説