周布政之助(すふまさのすけ)は、村田清風(むらたせいふう)の後を継いで、長州藩の財政、藩政改革を積極的に行った人物です。
幕末から明治維新にかけて、長州藩は重要な役割を果たしました。
しかし、時代が大きく揺れ動く過程で、長州藩内には様々な不安と混乱、苦悩が渦巻いていました。
そんな困難な時代に、藩の舵取りを一手に担ったのが周布政之助です。
■幕末長州藩の基礎を作った人物・村田清風の功績についてまとめました。
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周布政之助とは・生涯を簡単に紹介
周布政之助は1823年(文政6年)、萩藩士の家に生まれ、藩校「明倫館」で学びました。
村田清風の後を引き継ぎ、萩藩の財政を立て直そうと改革を進めますが、保守派と対立し失脚。
1858年(安政5年)、藩政の中心に戻り、軍制改革を中心にした藩政改革に着手します。
吉田松陰や高杉晋作らにも理解を示し、若い志士たちの活動を支援するなど、積極的に若手人材を登用。
将来を見据えて西洋の技術や知識を学ぶために、伊藤博文ら若者5人(「長州ファイブ」と呼ばれる)のイギリス密航にも尽力しました。
しかし、禁門の変により長州藩は朝敵となり長州征討の命が下されると、藩内は対立が絶えず大混乱に陥り、保守派が政権を奪取してしまいます。
この事態に責任を感じ、1864年(元治元年)9月、自刃しました。享年41歳でした。
周布政之助の思想
周布政之助は幕末の多くの志士たちと同様に、尊王攘夷を強く信奉していました。
しかし、高杉晋作ら若い藩士たちが唱える過激な攘夷とは異なり、攘夷の後に開国(諸外国と戦ったのち、進んで開国する)というものでした。
周布政之助の攘夷思想は単なる排外主義ではなく、将来の日本を見据えた現実的な思想だったといえます。
また、国を挙げて一致することこそ対外危機に備えることができると考え、朝廷や幕府、諸藩への交渉や仲立ちを行いました。
周布政之助の功績
藩政改革と軍備強化
周布政之助は村田清風の志を継いで、財政再建、殖産興業、人材登用などさまざまな藩政改革を行いました。
なかでも力を入れたのは軍備強化です。
西洋の軍事技術を積極的に取り入れることを目的に、西洋兵学の知識に長けた村田蔵六(のちの大村益次郎)を登用。陸海軍の指揮官を育成する藩立の西洋兵学校「博習堂」(はくしゅうどう)の基礎作りを命じます。
また、若い藩士を長崎に派遣して洋学を学ばせました。
これらの改革により、長州藩は早い段階で軍制の西洋化に成功しました。
若い志士の育成
村田清風が家柄にとらわれることなく人材を登用したように、周布政之助も吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎(のちの木戸孝允)ら、優秀な若い人材を積極的に登用し、良き理解者として彼らをサポートしました。
高杉晋作の江戸遊学や上海渡航は、周布政之助が尽力して実現したものです。
彼らの活動を支援する一方で、その過激な言動から幕府からの弾圧を受けないように陰で尽力しました。
長州ファイブの海外留学支援
尊王攘夷を唱える一方で、西洋の技術や知識を日本に取り入れる必要性を感じていた周布は、長州藩の若い志士たちを海外に送り出すことを奨励しました。
なかでも1863年(文久3年)、5人の長州藩士「長州ファイブ(井上馨、伊藤博文、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助)」のイギリス密留学に重要な役割を担っています。
藩内で保守派が反対する中、若い藩士たちが海外で学ぶための資金調達、出発準備を重ねたのです。
イギリスへ密留学した5人は、日本の近代化に大きな影響を与えています。
とくに伊藤博文は初代総理大臣となり、井上馨は明治新政府で要職に就いて、日本の近代化を推進していきました。
これらの成果はすべて、周布政之助の先見の明があってこそ。
もしも周布の支援がなく、長州ファイブの密航が実現していなかったら、日本の近代化は遅れていたかもしれませんね。
周布政之助・志半ばでの最期
酒気帯びで高杉晋作を見舞って謹慎に
1863年(文久3年)8月18日、会津・薩摩藩が尊攘派を京都から追放する事件が起こり、長州藩士たちは朝廷から追放されてしまいます。
激昂した長州藩士たちは京都へ攻め上ることを主張しますが、周布政之助はこれを収めようと高杉晋作を説得に派遣。
しかし、藩主に無断で京都に向かったことが脱藩とみなされ、高杉は野山獄へ投獄されました。
周布はその高杉を酒気を帯びて見舞った罪で、謹慎処分になってしまいます。
この時、鞘から抜いた刀で門番を脅して獄中に乱入。
これはさすがにお咎めなしとはいかず、謹慎処分になってしまったのです。
藩内の混乱の責任をとって自刃
高杉晋作が投獄され、周布も謹慎となった結果、過激な藩士たちが京都へ攻め上ることを止める者がいなくなり、長州藩は京都へ進攻。「禁門の変」が勃発します。
長州藩は薩摩・会津と闘って敗退。
朝廷の御所に向けて砲撃したとのことで、朝敵の汚名を着せられることとなったのです。
長州征討令が出され、四国連合艦隊による下関砲撃が行われるなど、長州藩をめぐる状況は大きく揺れ動き、藩内は混乱。
派閥による対立が激化し、周布が謹慎している間に保守派が政権を奪ってしまいます。
これらの責任は、藩の一大事に謹慎処分になってしまった自分にあると感じた政之助は、1864年(元治元年)、身を寄せていた山口矢原の吉富藤兵衛の家で自刃しました。
周布政之助のお墓、子孫
お墓と顕彰碑
周布政之助の名がついた山口市周布町にある周布公園には、周布政之助の顕彰碑が建てられています(山口市周布町2-46)。
1931年(昭和6年)、彼の功績を永久に称えようと、有志によって建立されたものです。
隣接する墓地にはお墓があり、「麻田公輔の墓」とされています。
これは1862年(文久2年)、お酒の席での土佐藩主山内容堂への暴言から謹慎となり、本名の周布政之助から麻田公輔(あさだこうすけ)に改名して藩政にあたったためです。
また、幼少期を過ごした長門市三隅の麻田にもお墓があります(長門市三隅下)。
説明板によれば、後年麻田の地に改葬されたとのことですが、詳細ははっきりわかりません。
子孫は
周布政之助の長男は第二次長州征伐で戦志。
次男の周布公平(すふこうへい)は、明治新政府で政治家として活躍。第1次山縣内閣の内閣書記官長、兵庫県知事、神奈川県知事などを歴任しました。
周布公平の長男で、政之助の孫にあたる周布兼道(すふかねみち)は貴族院議員となり、帝国議会決算委員会委員長を務めました。
ご子孫は今も健在で、2014年に行われた周布正之助の慰霊祭には、ご子孫の方々も山口に来られていたそうです。
まとめ
幕末長州藩の舵取りを担った周布政之助をご紹介しました。
村田清風の後を継いで改革に取り組んだ人物ですが、多くの長州藩士に慕われ、酒癖の悪さで心配されるなど、親しみやすい人柄でした。
長州ファイブをイギリスへ密留学させるなど先見の明もあり、周布政之助は日本の近代化の基盤を作った一人だったといえます。
ぜひ生きて明治維新を迎えて、明治新政府でも中枢を担ってほしかったですね。
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