
幕末の動乱期、多くの志士たちが命を懸けて時代を切り開こうとするその陰で、彼らを支えた人物がいました。
その一人が、福岡藩士・野村貞貫(さだつら)の妻であり、後に歌人・政治活動家として知られる「野村望東尼(のむらぼうとうに)」です。
彼女は表舞台に立つことはありませんでしたが、その行動力と信念は、多くの志士たちに大きな影響を与えました。
とくに、奇兵隊を率いた高杉晋作との深い関わりは、幕末史を語る上では欠かせないエピソードです。


野村望東尼とは・歌人であり志士でもあった女性
福岡藩士の妻として、歌人として
望東尼は1806年(文化3年)、福岡藩士浦野家の三女として生まれました。
幼い頃から和歌と書を学び、とくに和歌に秀でていたといわれています。
1822年(文政5年)、17歳で20歳年上の藩士のもとに嫁ぎますが、まもなく離婚。
生家に戻るとふたたび和歌や書道を学び、また尊王思想を身につけていきました。
24歳の頃、福岡藩士・野村貞貫と結婚。ともに再婚同士でした。
貞貫の連れ子ともよい関係を築き、4人の子を授かりましたが、みんな早世しています。

夫婦そろって歌人・大隈言道(おおくまことみち)のもとで和歌を学び、望東尼は歌人として成長していきました。
穏やかな日々の中、夫婦で和歌を詠み合い、腕を磨きあったのでしょう。
1859年(安政6年)、夫・貞貫が65歳で他界してしまいます。
伴侶を失った望東尼は出家。このとき、望東尼は54歳でした。
政治に関心を持ち、志士たちと交流
この頃、日本の政局は、開国か攘夷かで大きく揺れ動いていました。
1853年(嘉永6年)、ペリーが浦賀に来航。
1858年(安政5年)には、幕府の方針に反対する志士たちを弾劾した「安政の大獄」が勃発。
さらに、安政の大獄を指示した幕府の大老・井伊直弼(いいなおすけ)が殺害される「桜田門外の変」が起き、日本は行く末が見通せないほどの混乱に陥っていたのです。
そんな中、望東尼は大隈言道に会うために大阪へ行った際、京都へも足を運び、騒然とした京都の街の様子を肌で感じています。
若い頃から尊王思想にふれていた望東尼は、次第に政治に深い関心を持ち始めたのでした。
福岡に戻ると、平尾の庵(平尾山荘)に攘夷志士たちをかくまったり、密会場所を提供するようになりました。


高杉晋作との出会いと交流
危険を承知で高杉晋作をかくまう

高杉晋作が望東尼と出会ったのは、1864年(元治元年)、第二次長州征伐の直前のことでした。
京都で起きた「禁門の変」により、長州藩は幕府の朝敵となります。
そのため、晋作は幕府から命を狙われる身となり、長州藩を脱藩して福岡へ逃れたのです。
その際、彼をかくまったのが望東尼でした。
福岡藩にとっても幕府の圧力は重く、攘夷志士をかくまうことは重大な罪。
それにもかかわらず、望東尼は晋作をかくまいました。


高杉晋作との別れと深いつながり
しかし、長州藩では尊王攘夷派の家老たちが処刑され、保守派が台頭していました。
この状況を知った晋作は憤慨。
保守派を倒して藩政を取り戻すために、長州に戻る決意をしたのです。
「まごころをつくしのきぬは国のため たちかえるべき衣手にせよ」
望東尼は、旅立つ晋作にこの歌と夜なべして縫い上げた着物を贈ります。
真心を込めて筑紫の国で縫った着物は、国に帰るための着る服にしなさい、との思いをこめた歌と着物。
たった10日間の逗留でありながら、同志として、それ以上の深い心のつながりができていたのですね。
望東尼の投獄と高杉晋作の恩返し
高杉晋作による望東尼救出
望東尼の行動は福岡藩の知るところとなり、1865年(元治2年)、ついに捕えられ、福岡の姫島(現在の能古島)に流刑となります。
厳しい尋問と孤島での幽閉生活は、60歳を過ぎた望東尼の身にはきつく、身体は衰弱の一途をたどっていたことでしょう。
そんな野村望東尼の幽閉を知った高杉晋作は、恩人を救うために動きます。
高杉の命を受けた奇兵隊士たちは、姫島に密かに上陸し、望東尼を救出。
この出来事は、長州藩の一部では“第二の禁門の変”とまでいわれたのだとか。


高杉晋作の辞世の句

再会した晋作は病(肺結核)に伏しており、望東尼は献身的に看病します。
しかし1867年(慶応3年)5月、晋作はわずか27歳で病没。
新しい時代の到来を見ることは、叶いませんでした。


晋作が死の床で、「おもしろきこともなき世をおもしろく」と上の句を詠んだものの続かず、望東尼が「すみなすものは心なりけり」と下の句を詠むと、晋作が「おもしろいのう」と呟き息をひき取った、といわれています。
望東尼と歌をとおして交流することで、病の床で不安と悔しさを募らせる晋作の心は、少しずつ穏やかになっていたのではないでしょうか。
野村望東尼の晩年と辞世の句
晋作の死後、望東尼は三田尻(現在の防府市)に移ります。
薩長連合軍の必勝祈願のため、防府天満宮にこもり、断食をしながら7日間参拝し、1日1首の短歌を奉納したそうです。
しかし、この時の無理がたたり、1867年(慶応3年)11月、三田尻で身を寄せていた歌人・荒瀬百合子の自宅にて、62歳で亡くなりました。
晋作の死後、わずか半年後のことでした。
望東尼は亡くなる7時間ほど前に、辞世の句を読んでいました。
「冬ごもりこらえこらえて一時に花咲きみてる春は来るらし」
厳しい冬を乗り越えて春を迎える喜びを表すこの歌には、志士たちの念願が叶い、ようやく新しい日本が生まれることへの歓喜が表現されています。
歌を詠む望東尼の脳裏には、高杉晋作をはじめ、これまで支援してきた多くの志士たちが浮かんでいたことでしょう。
まとめ
山口県にゆかりの深い野村望東尼と、高杉晋作の関係について、ご紹介しました。
晋作にとって望東尼は、心を救ってくれた母親のような存在だったのではないでしょうか。
そして望東尼にとっても、晋作はかけがえのない心の友、同志だったのでしょう。深く固い絆を感じさせますね。
防府市内には、望東尼のお墓や終焉の地が残されています。
防府においでの際は、ぜひ足を運んでみてくださいね。
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