山口県に「東洋の化粧品王」と呼ばれた人物がいたことをご存じでしょうか?
その人の名は、中山太一(なかやまたいち)。
明治14年(1881年)、滝部村(現在の下関市豊北町滝部)に生まれ、クラブ化粧品で知られる、現在の「クラブコスメチックス」の前身となる「中山太陽堂」を創業した人物です。
中山太一の功績は?何をした人?
若くして経営や商売の才覚を磨く
太一は呉服や仏具を扱うかたわら、農業を営んでいた中山家に生まれました。
小学校卒業後は金銭的な家庭の事情から進学を断念。家業を手伝うことになりましたが、進学させられなかったことに心を痛めた父は、太一を学者の桂彌一(かつらやいち)のもとに預けます。
3年間桂彌一の家に住み込み、さまざまな学問や生活全般に関することを学んだ太一は、わずか17才でひとり、北九州市門司へ渡ります。
伝手がない中、なかなか定職につけず職を転々とした後、しばらくして大分の志賀商店に就職。医師を相手に薬品を販売し、調剤や薬品販売を経験しました。
明治34年(1901年)、志賀商店が神戸に進出することになり、支配人に抜擢。しかし自らを律するため、支配人を辞職してしまいます。
21歳の若さで中山太陽堂を創業
失業してしまった太一でしたが、貿易業で儲けた実業家に目をつけられ、洋品・雑貨・化粧品の行商をすることになりました。
太一は行商で商売の才覚をメキメキと現し、なんと、他の行商人の5倍以上の驚異的な売り上げをたたき出します!
スポンサーである実業家にその実力を認められた太一は、明治36年(1903年)、神戸花隈町に洋品・雑貨・化粧品の卸商「中山太陽堂」を創業。行商で培ったコネクションを活かし、さらには京都や九州方面にも販路を拡大していきます。
開業から一年経った頃、神戸の化粧品メーカーが作った「パンゼ水白粉」の独占販売権を取得し、販売すると大ヒット。
しかし、次第に品質の低下を指摘されるようになり、太一は「パンゼ水白粉」への信頼を失っていきます。
商品の改良を提言してもメーカーには聞き入れられず、他社の作る商品の中身まで口出しできないことに、歯がゆさを覚えるのでした。
自社製品第1号「クラブ洗粉」が大ヒット!
「自分の手で確かな製品を作りたい」との思いを抱いた太一は、化粧品製造に向けた研究を開始します。
日本の化粧品文化に合っていながら舶来品を超えた品質、時代の流れに合ったモダンな雰囲気のある製品の2つをクリアする製品を作るため、研究に没頭。
一年の苦難に満ちた開発期間を経て、徹底的に天然動植物性原料にこだわった製品を作り上げます。
そして、モダンでお洒落な雰囲気のある製品にするために、商品名に社交界をイメージできる「クラブ」という言葉をつけ、花の冠を抱いたシンボルマーク「双美人」のシンボルマークを制作しました。
こうして初の自社製品「クラブ洗粉」が明治39年(1906年)に誕生。
「湯屋(風呂屋)の前を通るとクラブ洗粉の匂いがする」と評判になり、1年余りで約400万個を売り上げる空前の大ヒット商品になったのです!
洗粉に続き、「クラブ白粉」「クラブ歯磨」「クラブ美身クリーム」もヒット。
クラブ化粧品のブランドが確立されていきました。
斬新な広告活動、飛行機を使って宣伝!
「クラブ洗粉」の大ヒットは、その使用感と洗浄力の高さはもちろん、モダンな商品名とパッケージの広告戦略が生み出したものでした。
会社の中に専門の広告部を作って広告効果を高める研究を行い、さまざまな手法を試しました。
シンボルマークの「双美人」、近代的な化粧法を図解入りで新聞広告に掲載などの戦略もかなりの注目を集めましたが、太一は2次元の広告だけでは満足しません。
フォードのトラックを購入して車体に金文字で商品名を入れて宣伝したり、飛行機からチラシを撒いたり、大阪の中之島公園の噴水の水に文字を映写するなど、アッと驚くような画期的すぎる広告活動を展開しました。
中山太一の家族は?
中山太陽堂は昭和29年(1954年)、いわゆる「29年不況」のあおりを受け、10億9000万円の負債を抱えて整理、再建へ。この時、太一は社長職を辞し、神栄生絲株式会社(現神栄株式会社)の社長・田代竹司が第二代社長に就任しました。
そして昭和31年(1956年)、会社の再建を果たせぬまま、74歳でこの世を去っています。
その後、長男の中山壽一さんが中山太陽堂3代目の社長に就任。創業家に経営権が戻り、現在は太一の孫である中山ユカリさんがクラブコスメチックスの社長を務めています(昭和46年(1971年)、クラブコスメチックスに社号変更)。
太一は「ひろ」という名の女性と結婚したそうです。調べてみましたが、「ひろ」さんがどんな女性だったのかはわからないままでした。
中山太一の人柄は?
覚悟に満ちた向上心
太一はとても向上心にあふれる人物でした。
明治34年、神戸に進出した志賀商店の支配人になった太一は、働きながらも夜学に通い、簿記の勉強をしていたそうです。
しかし、大分産のお酒の販売をおもな仕事にしていたため、つい毎晩お酒を飲んでしまい、夜の勉強に身が入らない日々。
ある日、目を覚まして客観的に自分を見つめ、愕然。
このままでは故郷の両親や恩師を裏切ることになってしまう、自分の努力がすべて無になってしまうと思い、断酒を決め、生涯お酒を口にしなかったといいます。さらには、お酒を扱う志賀商店の支配人の仕事もやめてしまったのだとか。
仕事をやめてまでも自分の向上心を貫くとは、ものすごい覚悟です。
「自利利他」「共存共栄」
また太一は常に、「自利利他」「共存共栄」をモットーにしており、これは今もクラブコスメチックスの精神になっています。
「自分の手で確かな製品を作りたい」と自社製品の研究を始めたように、太一は売ればいいだけでなく、製品を使った人や関係する人みんなを幸せにしたいと考えていました。
クラブ洗粉の裏面には、「真実の言語は迅速に社会に伝播する」「善良の製品は直に販路を拡む」と書かれています。
品質の良い製品を作れば相手に喜ばれ自然に売れていく。正直な取引をすることで人も栄え自分も栄えることは、「共存共栄」の精神に通じています。
郷土の地域教育に尽力
太一は郷土の地域教育や産業支援のために尽くしたことでも知られています。
故郷である滝部では、旧滝部小学校の建造にあたって弟たちと連名で多大な寄付を行いました。
そのほか、下関市綾羅木にある中山神社の創設への寄付や、中山太陽堂の安岡工場を建設するなど、地元の文化や産業の発展に尽力しています。
彼が寄贈した校舎は現在、下関市立豊北歴史民俗資料館(太翔館)として開放されています。
>>下関市立豊北歴史民俗資料館(太翔館)公式サイト
まとめ
「東洋の化粧品王」とよばれた中山太一をご紹介しました。
恥ずかしながら、クラブコスメチックの創業者が山口県出身の方とはまったく知らず、今回調べてみてその功績や広告戦略などにびっくりしました。こんな時代の最先端を行く人物が山口県から生まれたなんて、県民として嬉しいですね。
太一はご紹介した以外にも、雑誌を創刊して大正モダニズムに大きな影響を与えたり、戦前、貴族院の議員を務めるなど、さまざまな功績を残しました。