幕末、長州藩で松下村塾を主宰し、高杉晋作や久坂玄瑞といった維新の志士たちの思想に大きな影響を与えた吉田松陰。
わずか29年の短い生涯でしたが、自身の思想を貫きとおしたその生き方は、時代を超えて多くの人々に感銘を与えています。
松陰は生前、手紙や本を多数残しており、現在も、その深く前向きな思想や言葉にふれることができます。
吉田松陰とは
文政13年(1830年)、萩藩士の杉 百合之助の次男として誕生しました。
9歳で藩校「明倫館」の兵学講師に就任。
11歳で藩主・毛利敬親(もうりたかちか)に講義するほどの神童ぶりを発揮します。
21歳の頃から、日本の将来に強い危機感を持ち、各地の外国船に対する防備の状況を調べるために日本各地に遊学。多くの人と交わり、自らの思想を形成していきました。
嘉永7年(1854年)、2度目のペリー来航の折、自らの目で諸外国の様子を確かめたいとの思いから密航を試みますが、失敗。萩の野山獄に投じられます。
その後、杉家に幽閉の身となった松陰は、安政4年(1857年)、叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ主宰者として開塾。
久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎など、のちの明治維新の原動力となる多くの人材を育てあげました。
安政5年(1858年)、幕府が朝廷に無断で「日米修好通商条約」に調印すると、松陰はこれを激しく非難。
幕府の老中暗殺を企てるなど、次第に言動がエスカレート。長州藩から危険視され、ふたたび野山獄へ投獄されます。
安政6年(1859年)、幕府を批判しているとの疑いから江戸へ送られ、伝馬町の獄に投獄。
自ら老中暗殺計画を自供し、死刑を宣告され、斬首刑に処されました。
享年29歳。
吉田松陰の名言13選
「人生が充実しているかどうか、やるべき仕事や学問がうまくいくかどうかは、しっかりとした志を立てることから始まる。
高い志があれば何もできないことはない。」
17才の頃、医学修業に出る友人におくった言葉です。
「罪は犯した事件そのものにあり、その人の人間性にあるわけではない。どうして一つの罪で、その人のすべてを否定することができようか。」
大器は遅く成るの理(ことわり)にて、
躁敷(さわがし)き事にては
大成も長久(ちょうきゅう)も
相い成らざる事に之(こ)れあるべく候(そうろう)。
「何ごとも早くやり過ぎればしっかりしたものにならない。
大器はゆっくりと出来上がっていくものである。
慌ただしく行うようでは成し遂げることも長続きもしないだろう。」
藩校・明倫館再興についての意見聴取に応じて、意見書を提出したもの。19才の頃の言葉です。
「正しいことを行うために、精一杯の誠意で相手に接すれば、それで心をうごかされない人はいない。」
中国の思想家・孟子(もうし)の言葉です。
至誠とは「この上なく誠実なこと、まごころ」を意味します。松陰は生涯この言葉を大事にし、体現しました。
「読書はもっとも人を変える力がある。書の力は偉大だ。」
萩で野山獄に入れられても、書を手放すことがなかった松陰。
弟子の高杉晋作は同じく野山獄に入った際、師である松陰の志を継ぎたいという思いが高まり、獄中でも書を手放しませんでした。
「人はそれぞれ持って生まれた性格や資質がある。
自分の資質をよく知って伸ばすためにも、昔の偉人の中から自分に合った人に学んで、自分の生き方を見つけていかなねばならない。」
「一つ善いことを行えば、その善いことは自分のものになる。
一つ有益なことを得れば、それは自分にとって有益なことになる。
一日努力すれば、一日分の努力として効果がある。
一年努力すれば、一年の努力として効果がある。」
日々努力を積み重ねたら、その分自分のものとなり報われるという意味です。
努力を積み重ねなければ、その効果は得られないということですね。
「何ごともできないということはない。できないのはやらないだけのことだ。」
父と、その弟である松陰の叔父への手紙に記された言葉です。
「心はもともと生き生きとしているもので、活気づくには必ずきっかけがある。
きっかけは何かに触れて生まれ、感動することで動いていくもの。
旅はそのきっかけを与えてくれる。」
松陰が21歳の時、はじめて長州藩を出て、九州に勉学の旅に出た際に記した言葉。
これまでにしたことのない体験の数々は、松陰の心を震わせ、活気づかせたのでしょう。
「土地を離れて人の生活は成り立たず、人を離れて物事が行われることもない。そのため、人の生活や物事を論じようと思えば、まず、その地域の状態をしっかりと見なければならない。」
「人の心というものは、苦しい時に奮い立ち力を発揮する。
しかし、調子が良い時はだらけてしまうものだ。」
「志士というのは、人として正しいと考える生き方を貫こうとする人である。」
「人生というものは短く、夢やまぼろしのようなもの。
悪口を言われることも、褒められることも一瞬のこと。
栄えることも衰退することもあっという間。
ただそんな人生の中で、一つでも朽ちることのないことを成し遂げれば十分だ。」
吉田松陰の辞世の句は
「この身はたとえ武蔵野の地に朽ち果てようとも、私の大和魂は、国を守るためにこの世にとどまり続けていたいものだ。」
松陰は最後の最後まで、門下生たちに自分の思いを伝えようと努めました。
伝馬町の獄で刑死する前々日から前日に書き上げた『留魂録』は、門下生への遺言書というべきもの。この歌は、『留魂録』の冒頭に書かれた歌です。
死して君親(くんしん)に負(そむ)かず。
悠々たり天地の事、
鑑照(かんしょう)、名神(めいしん)に在り
「今、私は国のために命を捧げる。この死は、主君や親に背くものではない。
悠久に続く天地のことを思う時、神々よ、どうぞ私の国を憂う誠の思いをご照覧ください。」
死刑判決を言い渡され、評定所を出ていく際、松陰が吟じた漢詩です。
吟じた漢詩を、長州藩士として立ち会った小幡高政が書きとったものといわれています。
松陰はまず、『留魂録』の冒頭の歌「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」を吟じ、その後にこの漢詩を吟じました。
まとめ
吉田松陰についてと、彼が残した名言、辞世の句をご紹介しました。
萩の明倫小学校では、全児童が毎日朝の会で、吉田松陰が残した言葉を朗唱しているのだそうですよ。
読めば背筋がピンっと伸びるような、喝を入れられるような、そして、心温まる言葉たち。じっくりとお読みいただけると幸せます。
※この記事は、『熱誠の人 吉田松陰語録に学ぶ 人間力を高める生き方 上田俊成/致知出版社』『吉田松陰の名言100 野中根太郎/アイバス出版』を参考にしました。
■吉田松陰の生涯、功績などをまとめています。
⇒吉田松陰とは何をした人?死因や功績は?名言【至誠】に生きた生涯を紹介