こんにちは、防府市の主婦なんたんです^^
国木田独歩という文学者をご存じでしょうか?
自然主義の作家として、歴史や国語の教科書でその名を見た覚えのある方は多いと思います。
また独歩は、アニメ『文豪ストレイドッグス』の主要キャラクターでもありますね。
アニメで国木田独歩を知った方も多いでしょうが、いったいどんな作品を残し、どんな生涯を送ったのかご存じない方もいらっしゃるかと思います。
この記事では、国木田独歩の山口県との関わりや生涯、結婚と妻などについて調べてみました。
幼少から少年期を山口県で過ごす
独歩の出生の秘密
国木田独歩は明治4年(1871年)、千葉県銚子で父専八、母まんの子として生まれました。
独歩の幼名は亀吉といい、のちに哲夫にあらためます。
明治9年(1876年)、独歩が5歳の頃、父が司法省の職についたため一家で山口県に引っ越してきました。
少し広島県にいたこともありますが、およそ18年間、父の仕事の関係で山口県内を転々とし、県内各地にその足跡を残しています。
少年期を山口県の自然の中で過ごした独歩でしたが、その出生には曰くがありました。
父専八は瀧野藩士であったため戊辰戦争に出征。
戦争後に銚子沖で遭難し助けられ、千葉の旅館で療養していました。
療養先の旅館で働いていたまんと知り合い、独歩が生まれたのです。
しかし、専八は国元に妻子を残してきていました。
一家が山口県に越してきた同年、専八は国元の妻と正式に離婚しています。
司法職で法律に強かった専八が、国元の妻と穏便に別れられるように独歩の戸籍を捏造したのでは、という話も残っています。
独歩は自分の出生を知り、思い悩んでいたそうです・・・。
ガキ大将だった少年時代
のちに自らも「少時、余は極めて腕白にして乱暴なりき」と語っているように、少年時代の独歩はかなりのいたずら者でした。
小学校時代はまったく勉強せず、帰宅してはすぐに学校道具をほっぽり出して遊びに行き、やってはいけないということばかりやるガキ大将。
爪を伸ばして人を引っかくので、「ガリ亀」といったあだ名をつけられていたとか。
頭の回転が速く弁が立ち、場を仕切り盛り上げるような性格だったそうです。
三度の上京、東京と山口を行ったり来たり
最初の上京
14歳で山口中学校に入学しますが、父が萩へ転勤になったため、独歩は寄宿舎に入ります。
明治20年(1887年)、山口中学の学制改革をきっかけに退学。
前年上京していた級友の今井忠治に勧められ、父の反対を押し切り上京し、法律学校に入学します。
独歩16歳のことでした。
上京した独歩は文芸同人誌の同人になり、作品を発表。
それとともに法律学校をやめ、東京専門学校(早稲田大学の前身)英語普通科に入学します。
山口県ゆかりの志士、吉田松陰に傾倒し、学校改革のストライキに参加しますが、ストライキは失敗に終わり退学。
山口県に帰郷し、一度目の上京が終わります。
二度目の上京は失恋がきっかけ?
山口に帰った独歩は、一家が身を寄せていた熊毛郡麻郷(現・田布施町)の吉見家に住み、吉田松陰の門弟(富永有隣)に影響を受けて英学塾を開校しました。
また同じ頃、家庭教師先で石崎トミという女性と出会います。
トミとは結婚を考えるまでになりますが、トミの両親に反対され、恋が実ることはありませんでした。
失恋し、失意の独歩は明治25年(1892年)、弟と一緒に二度目の上京。
同人誌の編集に参加しながら、文学の道を進むことを考え始めます。
そのためには自分で生活できるようにならなければと考えた独歩は、文学仲間の徳冨蘇峰に職を紹介してもらい、大分県佐伯の鶴谷学館の教頭になります。
教頭の職に就いたものの、一年で退職。
三度目の上京で従軍記者へ
教頭を退職後、弟と教え子4人と一緒に三度目の上京。
そして日清戦争の従軍記者として軍艦に乗り込み、「愛弟通信」を新聞『国民新聞』に連載、好評を博します。
この三度目の上京と従軍記者への道は、独歩にある女性との運命的な出会いをもたらしたのでした。
二度の結婚と、のちの妻の回想
一度目の結婚~佐々城信子との破局~
明治28年(1895年)6月、独歩は従軍記者が集う宴に招待され、最初の妻になる佐々城信子と出会います。
この時独歩は24歳、信子は17歳でした。
当時の独歩はキリスト教の求道者として北海道への入植を夢見、信子は新聞記者になるためにアメリカへ行く計画を立てていました。
そんな二人が出会い、恋に落ちたのです。
信子の両親は二人の仲に猛反対。信子が独歩に会えないように監禁までしたのだとか。
しかし、二人は出会った同じ年の11月にスピード結婚。それが、その5か月後に信子が失踪。
あっという間に結婚生活は終焉を迎えます。
失踪の理由は、貧しい生活にあったようです・・・。
信子さん、本当は貧しい生活が嫌だったんだね
妻の失踪を知った独歩は、半狂乱だったといいます。
離婚後も信子との破局を引きずっており、「武蔵野」や「鎌倉夫人」の作品にその影を落としています。
のちの信子さんの回想によると、求婚の際、刃物を突き付けられて結婚を迫られたとか。
怖くて仕方なく結婚したと語っています。
本当のところはどうだったんでしょうか・・・
二度目の結婚~国木田治子との生活~
明治31年(1898年)、下宿の大家の娘だった榎本治子と再婚します。
治子は貧しい暮らしにも文句も言わずに耐え、独歩に添い遂げました。
治子はのちに10年ぐらい小説を書き、独歩との共著の本も残しています。
治子さん、頭のよい方だったんですね。
有能な編集者としての独歩
時代を先取りしすぎた小説
二度目の結婚の前年、処女昨「源叔父」を発表。
今も名作として知られる「武蔵野」、「忘れえぬ人々」などを発表し、作家活動を始めます。
明治36年(1903年)に発表した「運命論者」「馬上の友」などで自然主義文学の先駆けとなりますが、当時はまだ文壇で評価されることはありませんでした。
時代が独歩に追いついていなかったのです。
編集者としての活躍
明治32年(1899年)、生活のために新聞記者として働き始めた独歩。
早速、月刊誌『東洋画報』の編集長として抜擢されます。
『東洋画報』は『近時画報』と名を変えますが、雑誌は日本初の本格的なグラフ誌(写真を主体とした雑誌)として大好評。
日露戦争開戦のあおりで『戦時画報』と再び名を改めますが、戦況をいち早くリアルにビジュアルで伝える『戦時画報』は、どんどん販売部数を伸ばしていきました。
独歩は多くの雑誌を企画し、明治39年(1906年)にはなんと、12種類もの雑誌を刊行していました!
日露戦争後、グラフ誌への関心が薄れ会社は解散することになりますが、独歩は会社を引き継いで自ら「独歩社」を設立。
懸命に活動しますが時代の流れには逆らえず、翌年独歩社は破産してしまいます。
独歩社は破産しますが、独歩の周りにはたくさんの仲間がいて、借金がかさむ独歩社を助けようと奔走しました。
弁に長け場を盛り上げ、人を信じる独歩の人柄は、多くの文学者を魅了していたのです。
小説家としての名声の高まりと病没
独歩社が幕を閉じたその年、文壇に変化が訪れます。
自然主義文学が最盛期を迎えたのです。
文壇は「自然主義でなければ文学ではない」と言われるほどの風潮になり、自然主義文学の先駆けであった独歩は、一躍名声を浴びることになります。
しかしその頃、独歩は肺結核に侵されていました。
「竹の本戸」などの作品を発表し高い評価を得ますが、その一方で病状が悪化、神奈川県茅ケ崎の療養所で入院生活を送ります。
独歩を励まそうと田山花袋や二葉亭四迷ら文学仲間が見舞いに訪れますが、喀血が続き、明治41年(1908年)、38歳(満36歳)で死去しました。
現在は東京港区の青山墓地に眠っています。
まとめ
山口県にゆかりがあり、小説家としての絶頂期に生涯を閉じた国木田独歩。
その人生は文豪らしく、波乱に満ちた生涯でした。
学校では自然主義文学のところで名前を聞くぐらいですが、よく調べてみると編集者としても活躍した人物だったとは。知らないことだらけでびっくりです。
そして後々まで思いをひきずる佐々城信子との結婚。
エピソードがテレビで紹介され、刃物をつきつけて結婚を迫ったことが有名になったようですね。
理想を追い求めながらも、その人柄で周囲の人々をひきつけ魅了してきた国木田独歩。
次は山口県を舞台にした独歩の作品も読んでいけたらなと思います。
参考資料:
「やまぐちの文学者たち」やまぐち文学回廊構想推進協議会
「編集者国木田独歩の時代」黒岩比佐子 角川選書
「国木田独歩の気質的側面」芦谷信和
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