山口市は、室町時代に西国一の勢力を誇った大内氏の本拠地でした。

現在も国宝瑠璃光寺をはじめとする数々の歴史的建造物や資料、文化遺産が残されています。

この記事では、「西の京」として栄え、今もその風情を残す山口市生まれの有名人をご紹介します。

歴史上の先人(敬称略・順不同)

井上馨(いのうえ かおる)

長州ファイブのひとり。
明治政府で初代外務大臣に就任。元老として伊藤博文を支えた人物です。

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1836年(天保6年)吉敷郡湯田村に誕生。
萩の明倫館に入学。

つぶた
つぶた
井上さんは、この時代に活躍した人物には珍しく、松下村塾では学んでいないんだね

藩主の毛利敬親(もうりたかちか)に従って江戸へ。
高杉晋作や伊藤博文の仲間となり、尊王攘夷運動に加わります。

長州ファイブの一人としてイギリスへ密航したものの、下関戦争勃発により帰国。
和平交渉が実らず、連合軍に敗北。倒幕運動の推進に向かいます。

明治政府で初代外務大臣に就任すると、幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正に尽力。

外務大臣退任後も、諸閣僚を歴任しました。

明治政府になくてはならない人物とされた井上馨。
その生涯と渋沢栄一との関わりについて、こちらの記事で紹介しています。

大村益次郎(おおむらますじろう)

「維新の十傑」の1人。日本陸軍の創始者。
医者、蘭学者であり兵学者として名を成した人物です。

1825年(文政8年)吉敷郡鋳銭司(すぜんじ)に誕生。

医者の息子として、防府や豊後の国で医学、蘭学を学ぶ。

その後、江戸時代の名門私塾、緒方洪庵の適塾で学長を務めるほどの秀才ぶりを発揮。

幕府や自分の私塾で行った講義も、「深い理解力にもとづいた解説がわかりやすい」と人気。

長州藩では高杉晋作の奇兵隊も指導しました。

第二次長州征伐では、最新の武器と先進的な兵術を用いて勝利。
戊辰戦争も1年で終結させています。
中でも上野戦争では、状況・情勢の正確な認識、判断、計算に基づく想定に裏打ちされた戦略によって、旧幕府残党の「彰義隊」(しょうぎたい)を一日で制圧。益次郎の名を広く知らしめました。

功績が認められて、明治政府では軍政を担当。
「欧米列強から日本をまもるためには、国家が一つにまとまらねばならぬ」と考え、兵制統一のため廃藩、廃刀、徴兵や兵学校の設立を目指します。

これが武士や新政府軍の反感を買うこととなり、刺客に襲われて命を落としました。

大村益次郎の人物像については、こちらの記事で詳しく紹介しています。

鋳銭司には益次郎を祀る大村神社があり、隣接する鋳銭司郷土館では、その生涯も紹介されています。

大村神社について、こちらの記事でも紹介しています。

服部一三(はっとり いちぞう)

日本地震学会初代会長に就任した人物。

みかちゃん
みかちゃん
ニューオリンズ万博で小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と知り合った一三さんが、ハーンを教師として推薦。ハーン初来日のきっかけを作った人物でもあるのよ
つぶた
つぶた
一三さんは浮世絵や近世絵画の蒐集家としても著名なんだって。その数は1万枚にも達するそうだよ!

1851年(嘉永4年)吉敷郡吉敷村に誕生。

郷校(ごうこう)憲章館( けんしょうかん)に入学。

のちに、学頭だった片山哲次郎の養子となり、哲次郎が服部姓を継ぐ際に服部を名乗るようになりました。

アメリカ留学を終えて文部省に入省。同年東京英語学校の校長に就任しています。

東京大学の綜理補、大阪専門学校(現在の京都大学)の綜理などを歴任。

現代地震史の初の研究書『日本の破壊的地震(英語論文)』を発表したのち、1880年(明治13年)日本地震学会初代会長に就任しました。

1891年(明治24年)以降、官選で各県知事や貴族院勅選議員、国際連盟支部長など歴任しました。

つぶた
つぶた
一三さんといえば、兵庫県知事時代の有名なエピソードがあるね
みかちゃん
みかちゃん
日本初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」の始球式で、一三さんが打ったがボールが一間(1.8m)も飛ばなかったという話ね
つぶた
つぶた
生まれて初めてのゴルフでしょ。ボールに当てただけでもすごいや!

寺内正毅(てらうちまさたけ)

10代のころから従軍経験を持つ軍人であり、第一次世界大戦中に18代内閣総理大臣を務めた人物。

つぶた
つぶた
『ビリケン内閣』と呼ばれた人だよね

1852年(嘉永5年) 吉敷郡平井村に誕生。のちに母の弟寺内勘右衛門の養子となる。

戊辰戦争、函館戦争を経験し、凱旋後に軍学を学ぶ。
西南戦争最激戦とされる「田原坂の戦い」で負傷。
右手の自由を失ったことから前線を退き、軍政、軍教育の道へ。

念願のフランス留学をはたし、軍人としてのキャリアを重ねる。
日清戦争で参謀本部次長まで務めあげます。

日露戦争では陸軍大臣として勝利に貢献。
伊藤博文が暗殺されたのち、陸軍大臣のまま初代朝鮮総督に就任。

1916年 朝鮮総督を辞任して内閣総理大臣に就任しますが、2年後にシベリア出兵による米騒動の責任をとって総辞職しました。

1922年 自身が集めた朝鮮や中国に関する書物を収蔵する「桜圃寺内文庫(おうほてらうちぶんこ)」を開設。
戦後、書籍は山口県立大学へ。朝鮮関係の一部は韓国の慶南大学校に移管されました。

山口県立大学附属図書館の「桜圃寺内文庫」には、中国に関する書物など約2万点が収蔵され、研究者に公開されています。

2021年に、山口県立大学の主催で「旧桜圃寺内文庫たてもの見学会」が行われました。

普段見ることができない建物内の写真を掲載した見学会の様子は、山口県立大学のHPで紹介されています。

鮎川義介(あいかわよしすけ)

日本の近代経営の父と呼ばれる、日産コンツェルンの創始者。

1880年(明治13年) 吉敷郡大内村に誕生。
維新後に一家が没落。生活は苦しかったそうです。

大叔父の井上馨から「エンジニアになれ」とアドバイスされ、東京帝国大学工科大学機械科(現在の東京大学工学部)に入学。
井上家に書生として住み込みながら大学に通いました。

東京帝大を4番という優秀な成績で卒業。
井上から旧三井物産への入社を勧められたものの、「三井には、使ってほしいと思える風格の人がいませんから」と拒否。

鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの『実業の帝国』に強く影響を受け、起業家を志します。

「将来、独立して事業を営むためには、現場経験が重要」と考え、帝大卒の学歴を隠し、一介の職工として芝浦製作所(現在の東芝)に入社。
さらに日曜日ごとに徒歩で東京周辺の工場を見学。2年間かけて80社もの会社を回りました。

その結果、製造技術の未熟さが産業発展のネックになると考え、芝浦製作所を退社して25歳で渡米。
見習工として2年間働きました。

みかちゃん
みかちゃん
現場では技術を習得しただけでなく、ものづくりの人間の痛みや下請けの中小企業の大変さを身をもって知ったそうよ

帰国後は、戸畑鋳物株式会社(現在の日立金属)創立。製作所の設立や吸収合併も行いました。

1928年 経営破綻に瀕していた久原鉱業の社長に就任。日本産業(日産)と改称。

つぶた
つぶた
「会社は日本全国の株主のものであり、日本の社会や公益の一助となるべき」という、鮎川さんの思いを込めて命名したんだよ

その後、公開持株会社として多数の企業を傘下に収めて「日産コンツェルン」を形成。
戦前は三井、三菱をしのぐ財閥といわれていました。

戦後、GHQによる20カ月におよぶ拘置中「日本の産業基盤を支えるのは中小企業である」と考え、中小企業の振興に尽力。

学生へ奨学金貸与する育英会を設立して、高度な知識と技術をもった人材の育成という面からも、産業の発展に貢献しました。

晩年は執筆活動を行いつつ、主に政治家として活躍されました。

みかちゃん
みかちゃん
「中小企業の発展に尽力する」と明言した言葉どおりね
つぶた
つぶた
現場に身を置いた数年間の経験を忘れず、社会貢献意識を持ち続けて活動をつづけたんだね

日野原重明(ひのはらしげあき)

「人生は貢献」という信念を持ち、生涯精力的に活動を続けた医師。

年に1度、包括的な健康診断を行う人間ドックを導入し、日本の長寿に大きく貢献。
日本初のホスピス専門病院を設立。終末期医療の確立にも力を尽くした人物です。

2001年(平成13年)に出版した「生きかた上手」がミリオンセラーに。
生きかたに悩むすべての世代の人々のバイブル的存在として圧倒的な支持を得ました。

1911年(明治44年) 吉敷郡下宇野令村(しもうのれいそん)生まれ。

京都帝国大学医学部卒業後、戦時中は被災者の治療にたずさわりました。

1941年(昭和16年)聖路加国際病院内科医となり、院長を歴任。
1998年以降、東京都名誉都民、文化功労者、文化勲章を授与されています。

予防医学の重要性を指摘。
成人病とよばれていた病気について「生活習慣病」という言葉を生み出しました。

2007年には日本ユニセフ協会大使に。
「目には見えないけれど世界には恵まれない人々がたくさんいる。このことをしっかりと理解して、戦後日本が助けられたように、今私たちがその恩返しをしなくてはいけない」と、語られています。

次代を担う子どもたちに「いのちの大切さ」「平和の尊さ」を伝えるため、各地の小学校で「いのちの授業」を展開。

2017年(平成29年)、亡くなる数か月前まで患者さんの診察を行い、現役の医師として105年の生涯をとじました。

2020年には、「健康法や実用書ではなく、人生において何が幸せなのかという本を書き残しておきたい」と、死を目前にした日野原さんが思いを語った最後の著書「生きていくあなたへ」が発売されています。

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「死」を目前に恐怖を感じたという日野原さん。
そんな自分を「未知の自分、新しい自分との出会い」として前向きにとらえ、苦しみや辛さの中も、喜びや感謝の気持ちをもって進み続けるあり方も見せてくれています。

藤井旭(ふじいあきら)

日本を代表する天体写真家。
『子供の科学』で1993年から約29年間連載を担当。

1941年(昭和16年)山口市生まれ。

子どもの頃から流星の観測を行い、山口高校在学中に天文部を創設。

多摩美術大学卒業後、東京で雑誌のイラストを描く仕事をしていましたが、福島県に移住して転職。

1969年 天文仲間と白川天体観測所を開設。北海道犬のチロが所長となります。
1984年に発刊した「星になったチロ」がベストセラーに。
翌年、第31回青少年読書感想文全国コンクールの課題図書にもなりました。

1995年 オーストラリアにチロ天文台南天ステーション建設
2019年 日本天文学会天文教育普及賞を満場一致で受賞

2022年 81歳で亡くなる直前まで精力的に天文現象の解説に取り組まれ、国内外で出版された著書は400冊にも及びます。

特徴的なイラストと文体で、星空を見ることの楽しさを広く伝え続けた藤井さん。
多くの天文ファン、ハイレベルな天文アマチュアを生み出しました。

現在活躍している人物(敬称略・順不同)

吉田 正(よしだ せい)

何気ない日常を題材に、スタイリッシュなモノトーンの作品を制作している写真家。

1953年(昭和28年)生まれ。

山口高等学校、大阪芸術大学写真学科を卒業。

広告カメラマンとして大手印刷会社に10年間勤務したのち独立。
モノクロの心象的な作品が評価されて各種コンテストに入賞。
展示会や写真講座を通じて、写真表現の素晴らしさを伝え続けています。

みかちゃん
みかちゃん
詩人・中原中也と遠縁にあたる吉田さんは、2001年に中也の詩と自身の写真をコラボさせた作品集「imagination chuya(イマジネーション 中也)」を発行されてます

藤村恵子(ふじむらけいこ)

ドキュメンタリー系のテレビ番組や映画のプロデューサー。

1962年(昭和37年)生まれ。山口大学人文学部卒業。
1990年(平成2年)よりテレビマンユニオンに参加。

テレビの人気番組だった「世界ウルルン滞在記」といった旅番組や、作家など人物を題材としたドキュメンタリーを主にてがける。

映画「福福荘の福ちゃん」(2014年)のプロデューサーでもあります。

みかちゃん
みかちゃん
主役の「福ちゃん」を演じたお笑いトリオ「森三中」の大島美幸さんが、第18回ファンタジア国際映画祭で最優秀主演女優賞を受賞したことでも話題になりましたね

2021年からシリーズ化されている、ABEMAの話題作『私たち結婚しました』ではキャスティングも担当されています。

桑野聖(くわのひじり)

バオリニスト。作曲家・編曲家。

6歳からバイオリンをはじめ、クラシックのバイオリニストを目指して東京芸術大学へ進学。
管弦楽団でゲストコンサートマスターを務めるまでになるが、制作への興味がわき転向。

1992年、米米CLUB「君がいるだけで」のストリングスアレンジ以来、サザンオールスターズなど様々なアーティストのストリングスアレンジを手掛ける。

企画アルバムや映画、CM、TVドラマ等への楽曲提供や、作曲家、編曲家として活躍。
教育、歌謡、クラシック音楽と幅広い分野に携わりながら、自身の作品作りにも力を入れる。

桑野聖(バイオリン)、加藤里志(サックス)、shezoo(ピアノ)3名のユニット『見えるものと見えないもの』の演奏はこちらから視聴できます。

つぶた
つぶた
「美しすぎる」「クラシックの斜め上を行く」と、評される音の世界に引き込まれるね♪

國重友美(くにしげともみ)

アルファベットと漢字を組み合わせた「英漢字」の命名者である「エエカンジアーティスト」。書家。

6歳のときから習字をはじめ、高校生の時には書家を目指していたそうです。

大学時代、講義中に書いた筆記体の「truth」が「真実」という漢字に見えたことから英漢字が誕生。

大阪の路上で書くことから始め、初の個展で手ごたえを感じる。
2003年から英漢字®アーティストとしての活動をスタート。

当初はタレント業などをしながら、飛び込み営業を行って個展を開催。

山口西京銀行のカレンダーを皮切りに、作品提供を開始。
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の題字も國重さんの作品です。

創作活動にとどまらず、メディアでも活躍。
地元山口での個展や講演会も多数行われ、2010年には美祢市の観光アドバイザーに就任されています。

2023年に英漢字書家として20年を迎えられた国重さん。

美しく表情豊かな国重さんの独創的な書。
25周年にはどんな作品が披露されるのか?
とても楽しみですね^^

>>國重友美公式HP

田中陽子(たなかようこ)

小郡生まれのサッカー選手。
スペイン移籍を経て、2022年から韓国WKリーグの仁川現代製鉄(インチョンヒュンダイせいてつ)レッドエンジェルズで活躍中。

日本サッカー協会運営の「JFAアカデミー福島」に1期生として入学。

U-17女子W杯にスタメン出場して準優勝。

19歳の時に出場したU-20女子ワールドカップでは銅メダル。
田中選手は、2番目に多く得点した選手に贈られる「シルバーブーツ賞」を受賞。
この活躍によって、山口市スポーツ特別表彰を受賞しています。

2014年「山口ふるさと大使」に就任。県のPR活動にも一役買ってくださってます。

みかちゃん
みかちゃん
今シーズンも活躍中ね
つぶた
つぶた
ぼくも応援してるよ!

まとめ

山口市出身の先人や、今活躍している有名な方をご紹介しました。

今回ご紹介したのはほんの一部ですが、政治、経済、医療、学術、芸術・文化、スポーツと幅広い分野で多くの方が活躍していらっしゃいました。

山口市に生まれた方々の歴史や活躍を知ることで、山口市の魅力を再発見したり、個人的な興味が広がるきっかけとなりましたら幸いです。