幕末の長州藩では、有名な人物から志半ばで亡くなった人物まで、数えきれないほどの志士たちが、新しい時代を作るために活動していました。

どんな人物が活躍したか、ご存じでしょうか?

つぶた
つぶた
幕末の人物で有名な人は多いけど、誰が長州藩の人かわからないかも…
なんたん
なんたん
幕末って込み入って複雑な感じよね。リーダーのような中心人物を知りたいわ
山口県民としては、長州藩の志士を知ってほしい! そして地元民としてわたしも勉強したいところです!

そこで、幕末長州藩で活躍した人物を厳選してご紹介させていただきます。一緒にみていきましょう。

※記事内のイラストは、フリー素材「イラストAC」から使用しました(ニッキー風都水都)。

幕末期に活躍した中心的な人物

吉田松陰(1830年~1859年)

幕末でもっとも有名な人物といえば、やはり吉田松陰(よしだしょういん)ではないでしょうか。

吉田松陰は、萩で私塾である松下村塾を主宰した人物です。
幕末から明治期の日本を支える重要な人物を、多数育てあげました。

幕府が朝廷に無断で「日米修好通商条約」に調印したことを激しく非難。その際、幕府の老中暗殺を企てます。
幕府を批判しているとの疑いをかけられ、斬首刑となりました。

高杉晋作(1839年~1867年)

幕末の風雲児として知られる高杉晋作(たかすぎしんさく)。

吉田松陰の松下村塾に学び、その才能を高く評価されました。

文久3年(1863)、身分を問わず志ある者を集めた「奇兵隊(きへいたい)」を結成。翌年、下関の功山寺にて挙兵し、混乱に陥った長州藩を統一するため倒幕への道筋を作ります。

その後も活躍しますが、結核のため志半ばで亡くなりました。

久坂玄瑞(1840年~1864年)

吉田松陰の松下村塾で、高杉晋作と並んで「双璧」と称された秀才・久坂玄瑞(くさかげんずい)。

松陰が「防長年少第一流の人物」「天下の英才」として目をかけていた一番弟子です。

松陰亡き後、その志を継いで尊王攘夷運動のリーダーになり、下関海峡で外国船砲撃(攘夷)を強引に実行しました。

しかし、クーデターが起こり長州藩は京都から追放。
復権を試みるため起こした「禁門の変(きんもんのへん)」で惨敗し、自刃しました。

幕末から明治初期にかけて活躍した有名な人物

木戸孝允(桂小五郎/1833年~1877年)

木戸孝允(桂小五郎)は、維新三傑に数えられる人物です。幕末期には、桂小五郎の名前で活動しました。

幕末、高杉晋作らとともに長州藩の指導権を握って活躍。慶応2年(1866年)には藩を代表して薩長同盟を締結し、倒幕への道筋を整えました。

明治新政府が成立すると、日本の近代化、新しい国づくりを目指して時代をリードしていきます。

新政府の基本方針を示す「五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」を起草・監修。版籍奉還や廃藩置県などにおいても、主導的な役割を果たしました。

伊藤博文(1841年~1909年)

伊藤博文(いとうひろぶみ)は初代内閣総理大臣を務めた人物です。

幕末は松下村塾で学び、高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に傾倒。また、「長州ファイブ」の一員として井上馨らとイギリスへの密航に参加しました。

明治維新後は日本の近代化を推進し、内閣制度や大日本帝国憲法の制定に尽力しました。

伊藤博文といえば、下関の春帆楼での日清講和条約調印、同じく春帆楼でのフグ食解禁も有名ですね。

井上馨(1836年~1915年)

井上馨(いのうえかおる)は幕末、高杉晋作らとともに尊王攘夷運動で活躍。「長州ファイブ」の一員としてイギリスへの密航にも参加しました。

維新後は大蔵省の責任者、初代外務大臣などの要職を歴任します。

外務大臣としては、幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正、治外法権の撤廃に奔走しました。

欧化政策の一環で建設された鹿鳴館、帝国ホテルは有名ですね。

大村益次郎(1824年~1869年)

1977年の大河ドラマ『花神』で、主人公としてとりあげられた大村益次郎(おおむらますじろう)。

町医者として開業していましたが、蘭学の知識を買われて宇和島藩や江戸で活躍。その後、兵学者として長州藩で軍の指導権を握り、勝利に導きます。

維新後は明治新政府軍の総司令官をとり、近代日本の軍制を作り上げていきますが、志半ばで刺客に襲われ命を落としました。

山縣有朋(1838年~1922年)

吉田松陰の松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加。奇兵隊では軍監を務めました。

明治維新後は徴兵制を制定して近代的な軍隊の礎を築き、また日清、日露戦争では、陸軍の最高指導者として活躍。

政治では、1889年、1898年、内閣総理大臣を務めました。

歴史の脇で活躍した人物

三吉慎蔵(1831年~1901年)

三吉慎蔵(みよししんぞう)は、薩長同盟の立役者である坂本龍馬(さかもとりょうま)の命を救った、長府藩(長州藩の支藩)の人物です。

寺田屋事件で龍馬は切りつけられて深手を負いますが、同席した慎蔵が薩摩藩邸に救援を求めたため、命を取りとめました。

もしも、慎蔵が薩摩藩邸に行かずに龍馬が命を落としていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。

赤禰武人(1838年~1866年)

赤禰武人(あかねたけと)は、高杉晋作と志を同じくしながらも、非業の死を遂げた人物です。

松下村塾で学んだ後、高杉晋作の奇兵隊に入隊し第3代総督に就任しました。

分裂し混乱した藩内を話し合いで統一することを目指しましたが、武力による藩内統一を図ろうとする高杉晋作と対立。
晋作による挙兵が成功したことから、裏切り者呼ばわりされてしまいます。

藩から幕府のスパイの疑いで捕らえられ、ひと言の弁解も許されずに処刑されました。

前原一誠(1834年~1876年)

萩の乱の首謀者として知られる前原一誠(まえばらいっせい)。

松下村塾に学び、高杉晋作らとともに尊王攘夷派の志士として活躍した人物です。

明治新政府では兵部大輔(今の国防次官)を務めましたが、政策面で木戸孝允と対立。

その後、新政府に不満を持つ不平士族を集めて「萩の乱」を起こしますが、捕らえられて斬首刑になりました。

志士たちの活躍の基盤を作った人物

村田清風(1783年~1855年)

幕末の長州藩で多くの志士たちが活躍できたのは、家老の村田清風(むらたせいふう)の功績が大きかったといわれています。

清風は56歳で家老顧問役に抜擢され、藩主・毛利敬親(たかちか)の後押しを得て、借金だらけだった藩の財政改革を行いました。

財政改革とともに藩の軍備拡張も実施。さらに、教育による人材育成にも力を注ぎました。

清風の改革が、幕末の長州藩の基盤を築いたといえるでしょう。

周布政之助(1823年〜1864年)

周布政之助(すふまさのすけ)は、村田清風の後を継いで、長州藩の財政、藩政改革を積極的に行った人物です。

吉田松陰や高杉晋作らにも理解を示し、若者たちの活動を支援。「長州ファイブ」のイギリス密航にも力を尽くしました。

しかし、クーデターにより長州藩が京都から追放され朝敵になり、第一次長州征伐が行われるなど、藩を巡る状況は大きく動き、藩内は対立が絶えず大混乱に陥ります。この事態に責任を感じ、自刃しました。

村田清風、周布政之助らの後押しのおかげで、長州藩の志士たちが活躍することができたのです。

まとめ

幕末長州藩で活躍した有名な人物をご紹介しました。

こちらでご紹介したほかにも、松下村塾の四天王だった吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)、航海遠略策を唱えた長井雅楽(ながいうた)など、たくさんの人物が活躍した幕末の長州藩。

この記事が長州藩、現在の山口県について、少しでも関心を持っていただく機会になれば幸せます。

幕末にイギリスへ密航した「長州ファイブ」について、こちらでご紹介しています。