吉田松陰が主宰し、幕末から名人にかけて活躍した多くの偉人を輩出したことで知られる松下村塾。
塾生の中でも、松陰が「防長年少第一流の人物」「天下の英才」として目をかけ、高杉晋作とともに塾の双璧といわれた人物が、久坂玄瑞(くさかげんずい)です。
久坂玄瑞は何をした?
幕末、長州藩医の家に生まれ、吉田松陰に師事。松陰の妹・文と結婚。
松陰亡き後、その志を引き継いで尊王攘夷運動のリーダーに。高杉晋作らとともに建設中のイギリス公使館を焼き討ちを実行。
また藩論を公武合体から攘夷論に転換させ、下関で外国船砲撃(攘夷)を決行しました。
久坂玄瑞の生涯
14歳で生涯孤独の身に
幕末の志士久坂玄瑞は、天保11年(1840)5月、長州藩医久坂家の三男として誕生しました。
次男は早くに亡くなっているため、実際には二人兄弟です。
長男の玄機は玄瑞より20も年上。若い頃から医学と蘭学(西洋の文化や学術、軍事史など)を学び、長州藩きっての俊英として知られました。
兄に影響を受け、玄瑞も幼少の頃から、萩城下の私塾・吉松塾や医学所・好生館に通って学んでいます。
そんな生活が一変したのが、玄瑞14歳の夏。母が病没し、翌年2月には兄が病没。父も3月に精神的なショックから亡くなりました。
わずか一年足らずの間に家族を全員失い、天涯孤独の身となってしまったのです。
吉田松陰にその才を見込まれる
しかし、玄瑞はへこたれません。
久坂家を継いで医師になり、17歳で見聞を広めるため九州へ遊学。
旅の途中、吉田松陰の親友である兵学者・宮部鼎蔵(みやべていぞう)を訪れ、松陰に師事することをすすめられています。
その頃の松陰は、投獄されていた萩の野山獄を出て、親元である杉家で松下村塾を主宰。
そして政局では、アメリカ使節のハリスが、日米通商条約を結ぼうと画策していた頃でした。
九州の旅で日本の将来への危機感を強くした玄瑞は、旅から帰ると宮部から紹介された松陰に手紙を書きます。
その内容は、アメリカ使節ハリスを斬るべきだという過激な攘夷論でした。
松陰はすぐさま返信を送り、上っ面だけの言説で思慮が浅いと、玄瑞の意見をとことん打ちのめしていきます。
しかしこれは、松陰が玄瑞の非凡さを感じ取り、その志を高く評価したからこその批判でした。
松陰の反論に対し、玄瑞も手紙で応戦。書面で何度か激論を交わした末、玄瑞は松下村塾の門下生となったのです。
そこに高杉晋作も入塾。年が一つしか違わない二人は競い合うように成長し、松下村塾の双璧と称されるほどになりました。
そんな玄瑞を「防長年少第一流の人物」「天下の俊英」と絶賛するほど惚れ込んだ松陰は、妹・文を玄瑞に嫁がせようとします。
しかし玄瑞、「文さんはあまり器量がよくないから」と拒否。
仲介を頼まれた中谷正亮(しょうすけ)に「ハリスを斬るという者が容姿で妻を娶るのか!」と一喝され、結婚を決めたそうですよ。
江戸遊学と松陰との別れ
玄瑞は文との結婚で、松陰一家とともに杉家で暮らし、塾では松陰の補佐として指導にあたる日々を送ります。
しかしこの穏やかな生活は、たった2か月で終止符を打ちます。
玄瑞は松陰のすすめで、江戸遊学に旅立ったのです。
そして、藩政府の方針をなにかにつけて批判。長州藩からはいつ暴発するかわからない危険人物、とみられていたようです。
その頃、遊学先の江戸では大混乱が起きていました。
安政5年(1858)、13代将軍家定が亡くなると、幕府の大老・井伊直弼が朝廷の許可なく日米通商条約に調印したのです。
この事態に萩の松陰は激高。政治の局面を打破するために、幕府の要人である老中・間部詮勝の暗殺を計画。
暗殺計画を知った藩は、松陰を野山獄に投獄。
それでも松陰はあきらめず、獄中のから決起を促す手紙を門下生のもとに送ります。
玄瑞たちは松陰が血迷ったのではないかと驚き、今はその時ではないと意見。
手紙を見た松陰は激高し、玄瑞らと絶交を宣言するのでした(のちに交流を再開)。
安政6年(1859)、松陰は罪人として江戸の伝馬町の獄に連行されます。
大老井伊直弼による、幕府を批判する者の大粛清(安政の大獄)が始まり、松陰も疑いをかけられたのです。
安政6年(1859)、自ら老中暗殺計画を自供した松陰は処刑されます。
死を覚悟した松陰は獄中で、門下生にあてた遺書『留魂録』を書き上げていました。
その冒頭には有名な「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」との歌が記されています。
これは「この身はたとえ武蔵野の地に朽ち果てようとも、私の大和魂は、国を守るためにこの世にとどまり続けていたいものだ」という、松陰の願いが込められた歌。
玄瑞ら門下生はこの歌を読み、松陰の志を引き継ぐ決意をします。
とくに玄瑞は、長州藩の尊王攘夷派のリーダーとして先頭に踊り出たのでした。
公武合体から尊王攘夷へ、藩論を突き動かす!
当時の長州藩は、公武合体派の長井雅楽(ながいうた)が提唱する「航海謀略策」が藩論となっていました。
玄瑞ら門下生たちは、朝廷と幕府が協力して開国し海外への飛躍を図る「航海謀略策」に大反対します。
この策では、師である松陰の仇(かたき)で、倒すべき相手である幕府の延命を手助けすることになるからです。
玄瑞は、破約攘夷、尊王倒幕(日米通商条約を破棄し、朝廷のもと近代化を推進して外国と平等な条約を結ぶことを目指す)を主軸とする書を記し、藩に提出。
藩論を一気に尊王攘夷へと突き動かします。
そして、朝廷にいる尊王攘夷派の公家たちとも手を組んで朝廷から公武合体派を追い出し、さらには幕府に攘夷の決行を迫ったのです。
玄瑞らの勢いに押された幕府は、文久3年(1863)5月10日に攘夷を決行することを約束してしまいます。
また攘夷の機運を高めようと、高杉晋作らとともに、建設中のイギリス公使館の焼き討ちを実行。過激な攘夷運動を行いました。
攘夷決行、失意の八月十八日の政変
攘夷決行約束の日、文久3年(1863)5月10日。
玄瑞が率いる長州軍は、関門海峡をに碇泊中だった停泊中だったアメリカ船を砲撃。つづいてフランス船やオランダ船にも攻撃を行い、損害を与えました。
しかし、翌月には外国船から猛烈な反撃を受け、長州軍は壊滅的な被害を受けてしまいます。
そんな攘夷派の急進的な動きをもっとも心配していたのは孝明天皇でした。
自らが攘夷派にいいように操られているのでは、と危惧していたのです。
朝廷は、薩摩藩・会津藩に、京都から長州藩や尊王攘夷派の公卿たちを追い出すよう指示。その結果、長州藩は京都から追放されてしまいます(8月18日の政変)。
禁門の変で戦い、自刃
元治元年(1864)、玄瑞らは兵を率いて京都に向かい、藩の復権を願う嘆願書を朝廷に提出。しかし、京都からは撤兵するよう通達が出されます。
玄瑞は、嘆願するのが筋であり、朝廷の通達に従って兵を退けることを主張。
しかし、同じく軍を率いていた来島又兵衛(きじままたべえ)は戦うことを主張して意見を曲げず、軍略家・真木和泉(まきいずみ)も来島の意見に同意。
幕府軍3万強に対し、長州軍は3000強。
勝ち目がない戦いとわかっていたものの、彼らの激しい意見に引きずられるように、玄瑞も進撃を決意。
もと関白・鷹司輔熈(たかつかさすけひろ)邸に攻め入ったものの、越前藩に阻まれ、自刃しました。享年25歳でした。
この戦いで長州軍は、天皇がいらっしゃる御所へ向け砲撃。
結果、大敗を喫し、長州藩は最大の政治的危機に陥るのです(禁門の変)。
久坂玄瑞の生涯・年表
玄瑞の生涯を、ざっくりと年表にまとめました。
年 | 年齢 | 玄瑞の動き | 取り巻く情勢 |
---|---|---|---|
天保11年 (1840年) |
萩の平安古に、長州藩医久坂家の三男として誕生 | ||
嘉永6年 (1853年) |
14 | 母富子亡くなる | ペリー、浦賀に来航 |
安政元年 (1854年) |
15 | 兄、父亡くなる 家督を継いで医者になる |
ペリーふたたび来航 吉田松陰、密航を企てるも失敗。萩の野山獄へ |
安政3年 (1856年) |
17 | 九州へ遊学 吉田松陰と手紙で論争 |
吉田松陰、松下村塾を主宰する |
安政4年 (1857年) |
18 | 松陰の妹文と結婚 杉家(松陰の実家)で暮らす |
高杉晋作、松下村塾へ入塾 |
安政5年 (1858年) |
19 | 江戸に遊学 藩の方針をことごとく批判 |
吉田松陰、ふたたび野山獄へ。 日米修好通商条約調印 |
安政6年 (1859年) |
20 | 安政の大獄 松陰処刑される |
|
万円元年 (1860年) |
21 | 松陰の百日祭を行う | |
文久2年 (1862年) |
23 | 長州藩を公武合体論から尊王攘夷論へ転換させる 建設中だったイギリス公使館を高杉晋作らとともに焼討 |
高杉晋作、上海へ渡航 |
文久3年 (1863年) |
24 | 光明寺党結成 5月、攘夷実行のため関門海峡を通過する外国船へ砲撃。翌月反撃を受ける |
6月、高杉晋作奇兵隊結成 八月十八日の政変で京から長州藩が追放される |
元治元年 (1864年) |
25 | 7月、禁門の変で長州軍惨敗。鷹司邸にて自刃 | 12月、高杉晋作功山寺にて挙兵 |
松下村塾の双璧、久坂玄瑞と高杉晋作
幕末のヒーロー・高杉晋作のライバル。それは久坂玄瑞でした。
安政4年(1857年)、高杉晋作が松下村塾に入門します。
自分流にものごとを見る癖があった晋作を、良い方向に伸ばしたいと考えた松陰。
玄瑞と晋作が幼少期、同じ寺子屋で机を並べて学んでいたことを知ると、何かにつけ玄瑞をほめて晋作を発奮させます。
ふたりはライバルとして競い合い、結果、松下村塾の双璧といわれるまでに成長したのです。
晋作は玄瑞の「才」を「当世無比」と評価。玄瑞も晋作の「識」にはかなわないと絶賛。二人は強い絆で結ばれていました。
松陰は晋作に、「晋作の識を持って玄瑞の才を行えば、何かを為して成功しないものはない」「玄瑞を失ってはならない」と戒めの手紙を送っています。
また、西郷隆盛や桂小五郎、松陰の親友だった梅田雲浜ら、幕末の多くの人物が、玄瑞のことを高く評価。
西郷隆盛は明治維新後、玄瑞が生きていれば自分はこうして大きな顔をしていられない、と語ったといいます。
「幕末の長州藩を代表する志士といえば?」 そう聞かれてまず初めに思い浮かぶのは、「高杉晋作」ではないでしょうか。 高杉晋作といえば、奇兵隊を創設したことで有名な人物。尊王攘夷派の中でも、とくに過激な思想の持ち主でした。こ …
松陰から玄瑞、晋作に受け継がれた志
松陰は晩年、獄中で「草莽崛起(そうもうくっき)」を唱えます。
草莽とは、才能がありながら在野に埋もれている人たちのこと。
松陰は自身を草莽の人と悟り、国のために立ち上がることを決意します。
松陰には草莽の思想を実践する時間が残されていませんでしたが、その志は玄瑞、晋作ら門下生に受け継がれました。
玄瑞は松陰の願い通り、草莽の思想を実践していきます。
文久3年(1863)、長州藩が関門海峡で攘夷を決行する際、下関の光明寺を本拠地とします。
そこで玄瑞は、身分の低い者たちが集う「光明寺党」を結成。
医者や諸国の浪人、下級兵士らが大勢集まり、藩兵よりも気勢をあげ、おおいに活躍しました。
松陰の唱えた草莽の思想を、玄瑞が実践に移し、晋作がさらに実践し作りあげていったのです。
江戸時代の長州藩で松下村塾を主宰し、維新の志士の思想に影響を与えた吉田松陰。 幕末の教育者・思想家といわれ、今でも私たちの教訓となる言葉が「名言」として数多く紹介されています。 そんな松陰の本業は、実は長州藩の兵学者でし …
玄瑞は風流人、詩吟の名手だった
攘夷のために、ただただ短い命を燃やし尽くした久坂玄瑞。
当代きっての秀才であったことは知られていますが、実際はどんな人物だったのでしょうか。
じつは玄瑞、かなり高身長(180㎝ほど)で恰幅がよかったのだとか。
詩を吟じながら京都の加茂川河畔を歩いていると、周りの料亭では歌や三味線をやめて静まりかえり、みなが玄瑞の声に聞きほれていたのだとか…。
現在も、玄瑞を流祖とする「久坂流」という詩吟の会があるほどです。
まとめ
幕末の志士・久坂玄瑞の生涯、高杉晋作との関わりなどをご紹介しました。
師である松陰の志を継ぎ、幕末を駆け抜け、志なかばで25歳の短い生涯を閉じた玄瑞。
この記事が、混迷を極めた幕末で、若き玄瑞の生き様を知るきっかけになればと幸いです。