松下村塾(しょうかそんじゅく)は、幕末期に長州藩で吉田松陰(よしだしょういん)が主宰したとして知られる私塾です。
松陰の教えを受け、日本の近代化や産業の発展に貢献した塾生も多く、1995年には世界文化遺産に登録されました。
この記事では、向学心あふれる若者が集った松下村塾で、特に秀でた人物として語り継がれている四天王や、有名な塾生をご紹介します。
そして、およそ2年という短い開塾期間にもかかわらず、歴史に名を残す人材を数多く育てた吉田松陰の教えについてまとめてみました。
松下村塾の四天王とは?
松下村塾の四天王は、久坂玄瑞(くさかげんすい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)の4人です。
久坂玄瑞(くさかげんすい)
松下村塾三秀の一人。高杉晋作と並んで「松下村塾の双璧」といわれた人物です。
貧しい藩医の次男として誕生。
秀才といわれながら、10代前半までは涙もろく気が弱い性格。その後、高杉晋作ら同士と学び合う中で精神を鍛え上げていきました。
松陰からも「一流で多才」と認められ、1857年に18才で松陰の妹「文」と結婚。
1864年、禁門の変で自刃にて25才で没。
高杉晋作(たかすぎしんさく)
松下村塾三秀の一人。久坂玄瑞と並んで「松下村塾の双璧」といわれた人物です。
中流武士の家に誕生。
19才で入塾した当初は「剣術に優れているが乱暴者」とみられていましたが、松陰のもとで学ぶ中で「有識の士」と称されるまでに成長。
久坂玄瑞も、晋作の行動力と指導力に一目置いていました。
「身分や立場を越えて目的に向かって立ち上がろう」という、松陰の「草莽崛起論(そうもうくっきろん)」の影響を受け、奇兵隊を結成。
1867年、結核のため29才で没。
吉田稔麿(よしだとしまろ)
松下村塾三秀の一人です。
足軽の長男として誕生。
松陰は、稔麿の信念を貫く性格を弟のように愛したといいます。
一方で「才気は鋭いが学問を怠りがち」な面をいましめ、安逸(あんいつ:ぶらぶらと遊ぶの意)にならないように、『無逸(むいつ)』と※字名をつけました。
高杉晋作の奇兵隊に参加。
1864年、池田屋事件で自刃にて24才で没。
※字名:松陰が使った「名字説」の手法。「名」にその塾生が持つ個性の到達点を、「字」にその塾生に応じた精進・努力の心構えを示しました。
入江九一(いりえくいち)
松陰が「防長の真尊攘者、ただ汝一人のみ」と評した人物です。
足軽の長男として誕生。和作(弟)の後に入塾。
時勢の変化にともない過激化していった松陰に対して、他の塾生たちが距離をおく中、松陰と志を同じくして活動を続けました。
高杉晋作の奇兵隊の参謀。
1864年、禁門の変で自刃にて22才で没。
松下村塾の有名な塾生は?
松下村塾で松陰の教えを受けた塾生は、およそ90名といわれています。
ここでは、その中でも有名な5人を紹介します。
伊藤博文(いとう ひろぶみ)
初代内閣総理大臣。大日本帝国憲法(明治憲法)起草の中心人物です。
身分制度があった江戸時代。極貧の百姓の家に生まれながら、明治新政府で総理大臣となった博文は「今太閤」を自負していました。
博文は幼いころから利発で、どんなに苦しいことも熱心に取り組み、行動力にも優れていました。また、「身分も金もない自分には、人とのつながりは信頼しかない」と、人脈をとても大事にしました。
松陰も博文を大器晩成型と見抜き、密命を下したといいます。
1909年ハルピンで暗殺され68才で没。
山県有朋(やまがた ありとも)
第9代内閣総理大臣。幕末期には、常に高杉晋作と行動を共にした人物です。
元来の戦い好きで、奇兵隊の軍艦として活躍。明治・大正にかけて軍制、中央集権的な地方自治の確立に尽力しました。
松下村塾への入塾は乗り気でなかったとの説があり、塾生期間もほんの数か月でした。
1922年83才で没。
山田顕義(やまだ あきよし)
第1次伊藤内閣の初代司法大臣。日本の近代法典の編集を手掛けました。
用兵の才にもたけていたことから「小ナポレオン」と称された人物です。
司法大臣として皇典講究所(現国学院大学)や日本法律学校(日本大学の前身)の創立を支援。 日本法律学校法典の整備に尽力しました。
1892年47才で没。
渡辺蒿蔵 (わたなべこうぞう)
幼名「天野清三郎(あまのせいざぶろう)」は、24才の時に藩の許しを得て欧米へ留学。兵学と造船技術を学び、30代にして「東洋一のドック」を完成させるなど造船業の近代化につとめた人物です。
松下村塾の保存運動にも尽力し、塾生の中で一番の長寿でした。
昭和14年96歳で没。
品川弥二郎(しながわ やじろう)
第1次松方内閣内相に就任。農林業の育成や産業組合の設立にも貢献した人物です。
1887年に尊攘堂を建て、「幕末に活躍した先覚者の威徳を偲びたい」という松陰の夢を実現しました。
1900年56才で没。
松下村塾とは?
吉田松陰の父・杉百合乃助の弟・玉木文之進(たまき ぶんのしん)が、免職中に松本村新道にある自宅の1室で開いた私塾が始まりです。
地名である松本村をもじって「松下村塾」と名付けました。
建物は現在も松陰神社(萩市椿東)の敷地内にあり、外観を見学することができます。
松下村塾の歴史
1842年(天保13年) 吉田松陰の叔父、玉木文之進(たまき ぶんのしん)が開塾。
文之進は「知識を教授するだけでなく、学問のあり方から示す実学」を教育方針に、国家の役に立つ人材育成を目指していました。
愛のムチとして声を荒げたり体罰はあたりまえ。13歳で入門した松陰も、ぴんと空気が張りつめた環境で厳しい教育を受けました。
1848年(嘉永元年) 文之進が多忙になったのを機に閉塾。
松陰の外叔父となる久保五郎左衛門(くぼごろうざえもん)が「松下村塾」の名前を継承して開塾。
子どもを相手に基本的な読み書きを教えました。
1857年(安政4年) 松陰が文之進から塾名を継承し、実家の杉家で「松下村塾」を開く。
1858年(安政5年) 思想や言動を危険視された松陰が再び投獄され閉塾。
松下村塾での吉田松陰の教え
松陰の教育目的
松陰の教育目的は、「人を尊重する心や道徳心を養い、知性、精神、心身の調和のとれた人間、社会に貢献する人間を育成すること」でした。
時局がさし迫ってからは、自由に動けない自分に変わって尊王攘夷を実行する人材の養成が目的になっていたともみられています。
吉田松陰とは何をした人?死因や功績は?名言【至誠】に生きた生涯を紹介
【吉田松陰の名言】辞世の句や意味を紹介・志高く誠を貫きとおした幕末の偉人の言葉に学ぶ
松陰の教育方針
松陰は、身分や性別、貧富に関係なく「人はすべて本質的に平等である」という認識のもとに教育方針を立てました。
塾生と生活を共にし、心の触れ合いを多く持ち、ひとりひとりを深く研究したうえで、個性を尊重しながら「精神と心身と知性を育てる教育」をおこないました。
また、「人間教育は、美しい精神や雰囲気の中でおのずと身につくもの」として、教育環境の浄化と美化も心がけていたそうです。
松陰の教育方法
松陰の松下村塾は、規則も懲罰もない自由で開放的な環境でした。
入塾希望者には、まず「何のために学ぶのか」「どんな自分を目指したいのか」と問い、「一緒に励みましょう」と言葉をかけたそうです。
そして、「知識を得るだけでは、ただのもの知り。学んだことを実践することが大事」と、説きました。
塾生の人間性を高めるために、各自に反省させ、考えさせて自覚をうながしました。「自分も塾生も同じ学びの仲間である」として、敬愛の情をもって接し、塾生たちの自尊心と人に対する尊敬や親愛の念も養いました。
松陰が塾生宛に書いたおよそ70通の手紙にも、松陰の熱い気持ちや思いがつづられ、塾生たちの人間形成に大きく影響したといわれています。
また、松陰は誰に対しても平等に接する姿勢を示すことで、塾生の間に身分を越えた友情を育みました。教え合い学び合う中で、お互いの精神向上がはかられるようにしたのです。
学習面でも、松陰は塾生の特性をみいだして個別に丁寧に指導しました。
ひとりひとりに適した書物を与えて要点を書きぬかせ、「なぜそれを大切だと思うのか?」と議論したり、小論文を書かせて心情や見解を表すよう教え、細かく添削してコメントを添えて返しました。
さらに総合的な教育として
・1対1の指導とグループ討議を組み合わせ、「1人では考えつかないことも、みんなの知恵を集めれば前進できる」という体験学習
・郊外に出かけて地理や土地の風俗・習慣を学ぶ。水泳や登山、剣や銃の訓練で体を鍛える野外活動
・社会性や協調性を育む自炊や掃除、松下村塾の増築や畑仕事などの共同作業
を取り入れ、知識と実践を結びつけていきました。
松陰の教育は、作業をしながらも講義したり語り合いをするなど、日常生活のあらゆる機会をいかしながら効率的・合理的におこなわれていたのです。
まとめ
松下村塾の四天王と有名な塾生、吉田松陰の教えについてご紹介しました。
世界的な情勢変化の時代にあって、松下村塾で育まれた信念、志をもって精一杯力を尽くした塾生たち。
「彼らの働きあっての今」と言っても過言ではないように思います。
考え方は時と状況、立場によってさまざまですが、
・人はみな平等で、ともに学び合って成長する仲間
・人を尊重し、勤勉・努力する姿勢をもって模範を示す
・相手の理解に努め、個性に合わせて教え伸ばし、短所も長所に育てる
松陰の教育者としてのあり方は、今の私たちにとっても大切にしたい心がけではないでしょうか。
※この記事は、『吉田松陰の教育と思想/犬飼喜博』、『吉田松陰 幕末維新の変革者たち/木村幸比古』、『吉田松陰の時代/須田努』を参考にしました。
※記事内のイラストはイラストAC、画像は写真ACより引用しました。